05-21-12
デビッド・カープ(Tumblr創業者)「Tumblrについて」
“Tumblr’s David Karp Models For UNIQLO″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら
〔字幕〕
デビッド・カープ:僕はデビッド・カープ。タンブラーの創業者です。
タンブラーは自己表現のための理想的な
プラットフォームを目指しています。
多くの人が自分の気になっている物事を
共有できるしくみです。
今のWEBサービスには、個人の創造的活動のために設計された
ものはほとんどない。
そしてサービス上でのアイデンティティ
に誇りを持てるようなサービスも少ない。
フェイスブックでは簡単にアイデンティティを
簡単に作ることができるけど、
それは身分証明書のようなものでしかない。
タンブラーはオンラインでクリエイティブに
活動するための、とてもユニークなサービスだ。
誇りを持ってみんなに見せたいと思う
ものを共有できる。
人が君の名前をググったり、君の名刺や
履歴書に書かれているアドレスを入力したくなるようなものを
共有できるんだ。
人が自分の気になるものをもっと率直に
共有できるようになれば、
世界はもっと良くなるだろう。
何を共有しどのように見せるかの決定権
をユーザーに委ねることで、
美的で創造的な感性を持った人々の
コミュニティを呼び込むことができる。
そうしたコミュニティが、多くの人々を刺激して、
たくさんの作品がタンブラーで共有されていくんだ。
五〇代、六〇代になって写真の趣味に
目覚めた人たちは、
身近に趣味を共有できる仲間を見つける
ことが難しいけど、
タンブラーなら、彼らの活動を受け入れ
る創造的なコミュニティが見つかる。
そして刺激を受けてそこに参加したく
なるだろうし、
自分たちが参加するためのいいツール
を見つけたと感じるだろう。
そしてコメントを書いたり、写真を
共有したりするようになる。
そういうサービスならテンション上がるよね。
一番嬉しいのは、僕らに最も縁遠い分野
のコミュニティを見つけた時だね。
ファッション、音楽、映画産業の
コミュニティに集まる人々は、
僕らが思いもよらなかったような仕方で
タンブラーを使っているんだ。
理解するのに3年かかったことがある。
二、三ヶ月毎に必ずのように、
世界の終わりかと思うような大問題に直面する。
その出来事は君の胃をキリキリと締め上げ、
もうだめだ、自分はもうおしまいだ、
という気持ちにさせるだろう。
以前は時々起きるそうした事態に
慣れていなかったけど、
問題に対処して、難局を乗り切っていくうちに、
再び物事がうまく運び始め、自分たちの
仕事に熱中することができるんだ。
早い時期に良き相談者を見つけること。
そして彼らの話を真剣に聞くこと。
たとえ彼らの言うことが、正しいこと
だと確信できなくてもだ。
彼らとの対話を続けるんだ。
聞いた話は何年も後になって役立つこともある。
今になって自分のためになったと思えるのは、
これは彼らが前に言っていたことと同じ事だと分かって、
問題に落ち着いて対処できることだ。
僕は以前より賢くなったな、とか、
これは違うな、とか。
最終的にうまくやることができる。
そうだね、OKって感じに。
人の話を全部聞き入れる必要はないけど、
豊かな経験を持つ人達が身近にいるということは、
大きな財産になるよ。
05-21-12
芸術係数読書会:クレイグ・オーウェンス「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」を読む
Craig Owensの「From Work to Frame, or Is There Life After “The Death of the Author”?」の読書会のお知らせです。
「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」は、1960年代後半から70年代にかけて制作され、発表された芸術作品(主にマルセル・ブロータース、ダニエル・ビュレンヌ、マイケル・アッシャー、ハンス・ハーケlルイーズ・ローラーなど)や論考(マーサ・ロスラー、マリー・ケリー、アラン・セクラなど)に見られるある重要な変化に基づいて、80年代以降に現れたアプロプリエーショニズムとして知られる一群の作家たちの仕事についての考察です。
その変化はタイトルにもあるように、ロラン・バルトが1968年に発表した「作者の死」で言及した、作者と作品の意味や価値との関係の変化、作品の意味の生産における作者の地位の相対的な低下を指しています。そうした変化は80年代後半から90年代のシミュレーショニズムや関係性の美学を経て現在のアートシーンにも通じる変化です。
読書会は、3回に分けて進めます。テキスト中に多数のアーティストが言及されているので、初回はアーティストの紹介を中心に作品写真のスライドをお見せしながら進めたいと思います。
お申し込みはこちらから。
なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。
<参考図書>
ロラン・バルト「作者の死」(『物語の構造分析』所収)
<関心があれば>
クレイグ・オーウェンス「他者の言説」(『反美学』所収)
ミシェル・フーコー「作者とは何か?」(フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯 (ちくま学芸文庫)所収 )
===
日時:2012年6月30日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住 所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分
05-21-12
芸術係数読書会:ボリス・グロイス「アートとお金」を読む
Boris Groysの「Art and Money」の読書会のお知らせです。
「Art and Money」は、アートと金の関係を展覧会における金(支援)と作品の関係について考察します。
伝統的なアート場合は展覧会に出品されずとも作品は存在するのに対し、現代美術に特徴的なインスタレーション形式の作品は、展覧会に出品し、適切な支援が得られなければ、作品として存在することもできないということをグロイスは強調します。そしてそのような状況を“展示=制作”として定式化し、その端緒はデュシャンにあると指摘します。
グロイスはここからスタートして、現代アート(とりわけインスタレーション作品)を支える存在とは何かについて、とくに現代のネットを中心とするイメージ生産/流通技術との関わりから、考察を進めます。
一般にわかりにくいとされるインスタレーション作品の社会的な存在意義について、ベンヤミンやグリーンバーグの言説を鮮やかに読み換えつつ明快に説いていて、広くアートに関心のある方には一読の価値がある論考だと思います。関係性の美学に興味がある方にもおすすめです。
読書会は2回に分けて行います。参加者と一緒に英文を読み進めながら、内容の解説をしていきます。
お申し込みはこちらから。
なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。
テキストはこちらから入手できます。
<参考図書>
クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(『グリーンバーグ批評選集』所収)
<関心があれば>
ボリス・グロイス「全体芸術様式スターリン」
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」
Clement Greenberg, The Plight of Culture, in Art and Culture
===
日時:2012年6月16日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住 所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分
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05-13-12
マーシャル・マクルーハン「グローバル・ヴィレッジ(地球村)について」
“Marshall McLuhan in Conversation with Mike McManus – Friday May″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
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〔字幕〕
マイク・マクマナス:一九五〇年代初頭、世界はグローバル・ヴィレッジへ
向かいつつある、と予言していましたね。
私たちは地球規模で物事を考えるようになるとも。
今現在、予言は成就しつつあるのでしょうか?
マーシャル・マクルーハン:我々は逆戻りしています。
部族的で、集合的、個人の意識を持たない
古代人の二分心的な意識へ戻っています。
マクマナス:しかし、この部族的世界は友好的でない
ように感じるのですが。
マクルーハン:そのとおりですよ。
部族的世界の人間は、互いに殺しあうのです。
部族的社会は、危険の絶えない社会です。
マクマナス:我々がグローバルで、部族的になれば、
我々は…
マクルーハン:我々がもっと緊密になれば、互いに
もっと好意的になるとでも?
マクマナス:ええ。
マクルーハン:そんなことはありえませんね。
人間同士近づけば近づくほど不寛容に
なるのです。
マクマナス:それが人間の本質なのでしょうか?
マクルーハン:狭い環境では、人の寛容度に大きな
負荷がかけられるのです。
村落共同体の人々は、さほど互いを
愛していないのです。
グローバル・ヴィレッジとは、脅迫的な
インターフェイスであり、
非常に神経をすり減らす環境なのです。
マクマナス:ケベック州の分離主義思想には、その
ような考え方との共通点が見えますか?
マクルーハン:ケベック州民は国内の英語圏コミュニティ
を不快に感じているでしょうし、
それは百年前にアメリカ南部が北部に
感じていたのと同様の感情でしょう。
マクマナス:それはスペースの必要性ということ…
マクルーハン:いいえ、できるだけ摩擦の起きないような
出会いが必要なのです。
車輪とアクセルの関係にもう少し隙間が必要なのです。
車輪とアクセルが直結しすぎると、遊びが
なくなってしまうのです。
だから人々の間にも潤滑油というか、
少々距離が必要なのです。
マクマナス:距離を取る傾向というのは、世界中に
見られるものでしょうか?
マクルーハン:もちろんそうです。分離主義の台頭は
世界中で見ることができます。
世界中の国々で、リージョナリズムや
ナショナリズムを掲げる集団が活動しています。
ベルギーにおいてすら分離主義の大きな
動きがあります。
マクマナス:しかしケベック州民は、分離主義を
アイデンティティの追求と捉えています。
マクルーハン:あらゆる暴力はアイデンティティを
追求する行為です。
フロンティアを生き抜くとき、あなたに
アイデンティティはありません。
あなたは何者でもないのです。
だからあなたはタフになります。
自分が特別な存在であると、力で証明する
必要があるのです。
だから暴力的になるのです。
アイデンティティには、常に暴力が伴うのです。
一般市民にとって、暴力は自分たちの
アイデンティティを奪うものです。
暴力は、彼らのアイデンティティを
脅かすものでしかありません。
テロリストやハイジャック犯などは、
負のアイデンティティを持ちます。
彼らは何とかして注目されることを、
固く誓った人々なのです。
05-08-12
ヴィム・ヴェンダース「“Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち”の始まりについて」
“Wim Wenders speaks about how PINA originated″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
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05-08-12
Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち―ヴィム・ヴェンダース インタビュー(2012)HD
“Pina – Wim Wenders Interview (2012) HD″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
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05-05-12
〔ノート〕『明るい部屋』ロラン・バルト
目次
Ⅰ
1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」―その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意に捉えること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」―部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場
24 前言取り消し
Ⅱ
25 《ある晩…》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 仔細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い慣らされた「写真」
“ずいぶん昔のことになるが、ある日、私は、ナポレオンの末弟ジェロームの写真(1852年撮影)をたまたま見る機会に恵まれた。その時私は、ある驚きを感じてこう思った。《私が今見ているのは、ナポレオン皇帝を眺めたその眼である》と。”(p.7)
“「写真」が数限りなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は…機械的に繰り返す。”(p.9)
“「写真」は絶対的な「個」であり、輝きがなく、いささかばかばかしい、この上もなく「偶発的なもの」であり、ただ単なる「これ」である…要するにそれは、テュケー(運命)の、機会の、遭遇の、現実界の飽くことのない表現である。”(p.9)*英語版を参照して訳に変更を加えています。
“私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。…私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。”(p.15)
“技術的には、「写真」は二つのまったく異なった手順が交わるところにある。一つは化学的性質にもとづくもので、…もう一つは、物理的性質にもとづくもの…「観客」にとっては、「写真」は本質的に、いわば対象の科学的啓示=現像(レヴェラシオン)から生ずる…「撮影者」にとっては、「写真」は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)の鍵穴によって切り取られた視像と密接に結びついている…”(p.17)
“「撮影者」のこうした感動(「写真」のこうした本質)を私は決して知らないので、それについて語ることは不可能だった。…私の手の届く範囲には、ただ二つの経験しかなかった。すなわち、眺められる主体としての経験と、眺める主体としての経験である。”(pp.17-18)
“「写真」がもたらした混乱は、結局のところ、所有権の混乱である。法律はそれなりにこのことを告げている。写真は誰のものなのか?被写体…のものなのか?写真家のものなのか?風景そのものも、その土地の所有者から…の借用物にほかならないのではないか?…無数の訴訟が示しているように見えるのは、所有こそ存在の基盤であるとする社会の、所有権に関するためらいなのである。”(p.22)
“「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。…カメラを向けられると、私は同時に4人の人間になる。すなわち、私が自分はそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間…私は自分自身を模倣してやまないのである。…私は…自分が客体になりつつあることを感じている主体である。”(p.23)
“私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。”(p.25)
“私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。”(p.34)
“ストゥディウム(一般的関心)…は、気楽な欲望と、種種雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い…の問題である。…ストゥディウムは…人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく…無責任な関心である。”(pp.40-41)
“ストゥディウムとは、一種の教育(知と礼儀)なのである。”(p.41)
“「写真」が絵画から生まれたというのは、技術的には正しいが、しかしそれも部分的に正しいというだけである。…画家たちが利用したカメラ・オブスクラは、「写真」を生み出す要因の一つにすぎない…本質的に重要なのは、おそらく化学的発見が行われたということである。”(p.44)
“「写真」が芸術に近づくのは、…「演劇」を通してなのである。…ダゲールは、…シャトー広場(レピュブリック街)で、…パノラマ劇場〔ジオラマ館〕を開いていた。…カメラ・オブスクラは、透視画と「写真」と「ジオラマ」を3つとも生み出したわけであるが、この3つはいずれも舞台芸術なのである。…「写真」は、その中でもっとも「演劇」に近い、と私には思われるが、それは両者が「死」という特異な仲立ちによって結ばれているからである…。演劇と「死者信仰」との原初的なつながりはよく知られている。最初の演技者たちは、「死者」の役割を演ずるにあたって、身を共同体から切り離した。顔に化粧をほどこすのは、身を生きながら死んだ肉体として示すためであった。”(pp.44-45)
“写真はいずれも偶発的なものである(そしてまさにそのことによって、意味の埒外にある)から、「写真」は仮面を着けないかぎり、意味すること(一般的なものを狙うこと)ができない。”(p.49)
“プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。”(p.58)
“ジェームズ・ヴァン・ダー・ジーによって1926年に撮影されたアメリカの黒人一家…そのストゥディウムは明瞭である。…対面を保つこと、家族主義、順応主義、晴れ着を着てかしこまっていること、白人の持物で身を飾るための社会的上昇の努力…である。その光景は私の関心を引く。しかし私を《突き刺し》はしない。”(p.58)
“要するに、ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない。”(p.64)
“「歴史」とはヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない―そしてそれを見るためにはその外に出ていなければならない。”(p.78)
“絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。”(pp.93-94)
“「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。うなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》〔動詞intersum「〜の間にある、相異する、居合わせる」の完了過去〕ということ”(p.94)
“写真を発明したのは…画家ではなく、化学者たちである。というのも、ある科学的事由(銀ハロゲン化合物の感光性の発見)によって、…対象から発した光を直接とらえ固定することが可能になり、そのときはじめて「写真」のノエマ《それはかつてあった》が存在しえたからである。写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。”(p.99)
“写真のまなざしにはなにか逆説的なところがあるが、時にはそれが実人生でも見られることがある。先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の視線はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を見つめているという確信をもったが、しかし彼が私を見ているかどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。見つめていながら、どうして見ないでいられるのか?「写真」は注意を知覚から切り離し、…ただ注意を向けるかのようである。…ノエマのないノエシス、思考内容のない思考作用、標的のない照準である。”(p.137)
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05-01-12
ハンス・ウルリッヒ・オブリスト インタビュー part 2
“tank.tv Interviews Hans Ulrich Obrist (Part 2)″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら
「ハンス・ウルリッヒ・オブリスト インタビュー part 1」はこちら
動画中で言及されている「プロジェクト」は、インタビュー動画を制作したtank.tvのために編集されたDVD「フレッシュ・ムーブス:イギリスの新しい映像表現」のこと。
また、字幕ではMondialitéを「世界性」と訳しています。
[字幕]
質問:作品を見せる際の様々な文脈について
考えをお聞かせください
オブリスト:作品の見せ方には多くの可能性があります。
この可能性は、言うなれば、展覧会の現場で探求されるのです。
マルチスクリーンの映像インスタレーション作品、
例えば、ダグ・エイケンの作品や
ノー・ゴースト・ジャスト・ア・シェルの見せ方などは、
それぞれの作品に固有の空間的な条件があります。
それはカーペットやスクリーンの配置を含む、
インスタレーションの手法を意味します。
しかし、空間的に厳密に作品を定義
するアーティスが、
より空間的な制約がゆるい作品を
作ることもあるのです。
より偏在的で、さまざまな状況で
見せることのできる作品を。
最初の質問の答は、見せ方の問題
だということ、そして
ある種の作品は、厳格な空間設計
に基づいて見せる必要があり、
アーティストにとってそれが重要で
あるけれど、
しかし同じアーティストでも別の
作品に関しては、
アート・ワールドを超える偏在性を
作品に求めることもある。
美術館やギャラリーだけでなく、
もっと日常的な場所、例えばDVDストアとか、
あるいはより幅広い流通が可能な
状況で見せたいと考える。
だからこの場で、どのアーティスト
はこうで、と言うことはできない。
それは現場での交渉で決まるのです。
多くのアーティストは色々な
可能性を試したいものです。
様々な考えが混ざり合った可能性を。
質問:イメージはどう動くのか?
オブリスト:アーティストが「動き」を形にする
道筋には、高速レーンと低速レーンがあると
考えます。
私たちの世界はグローバル化による
同質化の圧力にさらされていますが、
それはアート界にも影響しています。
私が考えているのは、同質化への
抵抗なのです。
それは単に空間的なものではなく、
時間的なものでもあります。
時間の同質化は非常に大きな問題で、
それに抵抗しなければなりません。
ですから我々はエドゥアール・グリッサンから
大いに学ぶべきです。
彼の「世界性」という概念は、
グローバル化の同質圧力への抵抗で
あるとともに、
潜在的な、グローバルな対話の可能性を
閉ざさないことなのです。
だから彼は「世界性」を、世界的な
対話の可能性として、
差異を維持する力として定義します。
それは差異を生み出すグローバルな
対話を否定しません。
私はこのプロジェクトが、
空間と時間の同質化に抵抗する
ことによって、
グリッサンの「世界性」の実現に
寄与することを願っています。
04-24-12
芸術係数読書会:「What is a Photograph?」を読む 第2回
Margaret Iversen の「What is a Photograph?」を読む勉強会の第2回です。今回はテキストの後半部分を読み進めます。
「What is a Photograph?」はロラン・バルトの「明るい部屋」をジャック・ラカンの「精神分析の四基本概念」の注釈として読解するという論文です。著者はエセックス大学教授のマーガレット・アイバーセン。ラカンやフロイトの精神分析の諸概念の入門にも良いと思います。
バルトの「明るい部屋」は副題(写真についての覚え書き)にもあるように写真論として書かれたものですが、その写真論は徹底して鑑賞者の立場からの考察であり、写真を見ることについての物語になっています。バルトはバルト自身が特定の写真に抱く欲望を出発点として写真の本質を読み解こうと試みており、アイバーセンはそのようなバルトの考察の道筋が、「精神分析の四基本概念」の見る主体の構造分析を理解するのに役に立つと考えています。
「What is a Photograph?」は単に写真についての論考としてではなく、私たち鑑賞者と芸術作品をどのように見ているのか、について考える助けになると思います。
勉強会では私の訳を使って読み進めますので、それほど英語力は必要ありません。内容を理解することを重視して進行します。
今回は二回目ですが、前回分の訳と資料を配布いたしますので、ある程度キャッチアップできるとは思います。
対象テキストはMargaret Iversen, Beyond Pleasure: Freud, Lacan, Barthes (Refiguring Modernism)に収められています。
参加申し込みは予約フォームからお願いします。
*テキストや参考資料などはFacebookで共有していますので、参加ご希望の方はFacebookアカウントをご用意いただくことをおすすめします。
<参考図書>
ロラン・バルト「明るい部屋」
<関心があれば>
ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」
Rosalind Krauss, The Optical Unconscious
===
日時:2012年5月19日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住 所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分
04-24-12
エルンスト・ゴンブリッチ「『美術の物語』について」
“Ernst Gombrich (author) on Story of Art″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら
[字幕]
チャーリー・ローズ:エルンスト・ゴンブリッチ卿は世界で
最も有名な美術史家と言えるでしょう。
彼はロンドンで学び、今年で九十二歳です。
彼は「美術の物語」の作者です。
この本は美術の正史として、売り上げは百万部を突破し、
二十三の言語に翻訳されています。
この本は二十世紀後半の視覚文化の
礎ともなりました。
彼はクラシック音楽の愛好家でもあり、
長年にわたってロンドン大学とヴァール
ブルク研究所で教えました。
第二次大戦中はBBCのドイツ語放送を担当し、
一九四五年、ヒトラー死亡の第一報を
チャーチルに伝えました。
彼は、一九九五年にこの番組に出演しました。
今宵は彼を偲びながら、
その日の会話を振り返りましょう。
これは驚くべき書物です。
人々の賞賛の声は届いているでしょう。
どうしてこのような書物が
生まれたのでしょうか。
エルンスト・ゴンブリッチ:それは様々な出来事の偶然の繋がりが
生んだものだと言っていいでしょう。
それはこのように生まれたのです。
私はかつて、子供向けの世界史の
執筆を依頼されました。
その頃の私は若く、まだウィーンに
住んでいました。
私が書いた世界史の本はよく売れました。
そこで出版社から、子供向けの
美術史の本の執筆を打診されました。
私はその依頼を断りました。子供向けの
美術史など存在しないからです。
しかし彼らはあきらめませんでした。
最終的に、子供向けにはしないことで
執筆を了承しました。
そうしてこの本は形になったのです。
執筆中には戦争をはじめ様々な理由で
中断を余儀なくされましたが、
それにも関わらず、書き上げることが
できました。
ローズ:どうしてこれほどの評価を
得たのでしょうか。
ゴンブリッチ:それは、率直な書き方をするよう
努めたからではないでしょうか。
明白な事象については謎めいた書き方を
避けましたが、
議論が必要な事象については謎を残して
おきました。
それは明白に謎なのですから。
ローズ:間違っていたら訂正して下さい、たしか
あなたはこう言っていましたね、
実際に言ったというより、事実上そう
言ったとされているということですが、
美術の「物語」、ということに重要な
意味があると。
ゴンブリッチ:とてもいい点に気づいてくれましたね。
それは意図的なものです。
「物語」が意味するのは、単に
時系列に起きた出来事を、順番に並べた
年代記ではないということを意図しています。
つまり「流行の年代記」のようなもの
ではないということです。
イメージ形成の展開というのは、
人の手が介在する物語なのです。
それは、人類の企図とその達成の所産なのです。
ある目的の達成が停滞した場合には、
他の人がそれを引き継ぐのです。
ですから、物語には一貫性があるのです。
人々はそこに、筋道の通った出来事の
連なりを見いだすのです。
ローズ:確かに、読者はその点に魅力を
感じているのでしょう。
あなたは物語を展開させるための、
繋がりを生み出したわけです。
ゴンブリッチ:そうです、それが私がやろうとした
ことです。
ローズ:モダン・アートについてはどう
お考えですか?
ゴンブリッチ:それに関連して、モダン・アートは
興味深い問題です。
私の物語は、ある意味で、
世界を表現する際の、対立する二つの
問題や手法の、争いの物語なのです。
簡潔に言うと、知識に基づく表現と、
見ることに基づく表現との間の争いです。
私はエジプト美術を通じて、
エジプト人が目前の事物を超えて、彼ら
が知るものを見ていたと説明した。
この物語の行き着く先は印象派です。
印象派を生み出したのは、無垢な目
と呼ばれた原理です。
目に見える世界をそのまま描出する、
その原理が勝利したのです。
十九世紀末のことです。
その後で何が起きるのか、その問題に
答えることが、
二十世紀の美術史を書くということ
なのです。
さて質問はモダン・アートについてどう
考えるか、でしたね。
モダンアートは、物語の中断に
直面しています。
そしてこれまでとは全く違う解決法を
探しているのです。
私はこの本の中で、
この中断の理由の一つについて、次の
ように説明しました。
印象派を支えた原理は、やや単純すぎる
ものであって、
知っていることと知覚していることを
完全に分けることはできないのです。
そのため、アイディア全体が崩れさって
しまったのです。
その後のページで補足すべきだったの
かもしれませんが、
それには写真の発明も深く関わっている
のですが、
芸術家やイメージ制作者のための、
別の可能性の探求が、
今に至るまでずっと続いているのです。
ローズ:あなたは熱心なコレクターでは
ないようですね。
ゴンブリッチ:私はコレクターではないですね。
ローズ:なぜですか?
ゴンブリッチ:私にはそんな財産はないからですよ。
ローズ:大コレクターもはじめは小額の資金から
スタートしていますよ。
ゴンブリッチ:確かに。
私には所有欲がないのでしょう。
偉大な作品は、美術館やギャラリーで
見られれば満足なのです。
所有したいとは思いません。
どこにあるかわかっていれば
良いのです。
ローズ:美術館で見ればよいと。
ゴンブリッチ:その通り。
ローズ:でも版画は持っているでしょう?
ゴンブリッチ:私の父は版画のコレクターでした。
ですから私は多くの版画作品を譲り受けました。
その中には大変価値があるものも含まれます。
ローズ:ウィーン時代の話をしましょう。
あなたの母親は、マーラーとフロイトの
友人だったそうですね?
ゴンブリッチ:はい。
彼女はフロイトの顔見知りでした。
友人というのは言い過ぎですが…
ローズ:そうですか?
彼女は彼らについてなにか
言っていましたか?
ゴンブリッチ:いろんなことを言っていましたよ。
彼女はフロイトのことを今までで最高のユダヤ・ジョークの
語り手だと言っていました。
ローズ:マーラーについてはどうですか?
ゴンブリッチ:マーラーは神経質で気難しい人でした。
母はそのこともよくわかっていました。
ローズ:あなたの成長には音楽が重要な意味を
果たしたのでしょうか。
ゴンブリッチ:全くその通りです。
私の家族にとって、音楽はとても重要な
ものでした。
ローズ:あなたはロンドンで最初にヒトラーの
死を知った人物だったのですか?
ゴンブリッチ:ええ。当時私はそういったニュースを伝えて
いましたから…
ローズ:そのときの様子は?
ゴンブリッチ:その時は…
戦争の末期で、
それはドイツ軍の無線通信の一つでした。
私たちは重要な発表があるということで
待機していたのです。
それはヒトラーに関するものであること
は予想できていました。
私は経験のあるスタッフとして呼ばれて
いました。
私にはニュースをできるだけ早く伝える
ためのアイディアがありました。
あらかじめ何枚かのメモにこんな風に
書いておくのです。
ヒトラーが死んだ、ヒトラーが降伏する、など。
そして無線から「我々の総統が死去
…」と聞こえるやいなや、
正しいメモを指差しました。
情報は即座にチャーチルに伝えられ
ました。
ローズ:その時チャーチルは寝ていましたか、
何時頃だったのでしょうか?
ゴンブリッチ:寝てはいなかったと思いますよ、
あれは…
ローズ:ワーグナーの曲は演奏されたのですか?
ゴンブリッチ:そのとき演奏されたのはブルックナー
でした。ブルックナーの交響曲第七番第二楽章です。
その楽章は、ワーグナーの追悼のために
書かれたのです。
その時私は、その後に起きることの
予兆を感じ取りました。
ローズ:音楽家になろうと思ったことは?
ゴンブリッチ:いいえ、まったく。私には才能が
ありませんから。
ローズ:才能がない?
ゴンブリッチ:ええ、そう思いますよ。
ローズ:オックスフォードで教授職について
いらっしゃった?
ゴンブリッチ:はい、オックスフォードでも教授を
つとめました。
ローズ:「美術の物語」の出版後、何か変化が
ありましたか?
ゴンブリッチ:講演やゼミの依頼があちこちから来る
ようになりました。
アメリカにも何度も呼ばれましたし、
他の場所からも依頼がありました。
ローズ:ナイト爵に叙せられたのはいつですか?
ゴンブリッチ:一九七二年だったと思いますが…よく
覚えていません。
ローズ:あなたの好きな芸術家は?誰が…
ゴンブリッチ:好きな芸術家というのは思い
あたりません。
私は芸術家を格付けしません。
私は何人かの芸術家を大いに
賞賛します。
しかし、別の芸術家の作品を見る
ときにも、彼もまた素晴らしいと言うでしょう。
とはいえ、例えば私はベラスケスを
大いに賞賛しますし、
シャルダンにも賞賛を惜しみません。
芸術家とは、言ってみれば、
とても優れた技量でカンバスに絵具を
配置する人々のことです。
それは一つの奇跡なのです。
ローズ:ゴンブリッチ卿は、先週ロンドンで
亡くなりました。九十二歳でした。
それでは次回、またお会いしましょう。

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