05-08-12

ヴィム・ヴェンダース「“Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち”の始まりについて」

“Wim Wenders speaks about how PINA originated″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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04-24-10

『美と崇高のリ-クロッシング』の事を少し、覚書もかねて

開催からだいぶたってしまいましたが、第二回芸術係数ダイアローグ講師の千葉雅也さんが参加した『美と崇高のリ-クロッシング――芸術理論の再起動へ向けて』の事を少し書いてみます。
このイベントは六本木アートナイトの一環で開催されたもので、3月27日の深夜(正確には3月28日の午前1時)から明け方4時までというディープな時間帯に開催されました。にもかかわらず、というか、それが故、会場はイベント目当ての人、森美術館に入れなかった人、行き場のないカップルなどいろいろなクラスタが交じり合う状況で、立見が出るほどの異様な熱気に包まれていました。

発表者は千葉雅也氏(哲学)、池田剛介氏(アーティスト)、加治屋健司氏(美術史)、星野太氏(美学)という面々。それぞれの簡単なバックグラウンドは池田氏のブログをご覧ください。

まずは加治屋氏から若干教科書的なグリーンバーグのお話。最後のほうに少し触れたグリーンバーグの批評における時間性については後半でもあまり触れられていなかったようなので、もう少し聞いてみたかったような気もしました。しかし加治屋氏の発表のハイライトはVOGUE誌(ハーパースバザー?ちょっとうろ覚えです)に掲載されたグリーンバーグの私邸のリビングの写真。インテリア雑誌に出てきそうな普通におしゃれな部屋にほとんど壁紙のように抽象表現主義の画家たちの絵画が使われていた。まさに「資本主義リアリズム」と言うべき光景でした。
続いて星野氏の発表。グリーンバーグに対抗して崇高と言う観点から抽象表現主義を評価しようとしたローゼンブラムの抽象的崇高概念の紹介から。しかし、その表象不可能性の表象としての崇高はカント以来の崇高概念の焼き直しにしか過ぎず、それに対しスミッソンやセラのピクチャレスク概念を導入することで、非カント的な崇高概念、そのときには言及されませんでしたが、かねてから星野さんが口にされていたロンギヌス的崇高も可能性を開きたいということ。
その後は池田剛介氏のターン。池田氏は崇高(=超越性)の否定神学的側面に対して性急にリアル(=モノ自体)みたいなものを対置させる二者択一的な道ではなく、その間に美(=造形性、可塑性)の可能性を見出そうと、つまり、象徴と現実の間の想像/創造の次元を復権させようということを言っているように理解しました。と書くとずいぶん普通なことのようにも読めてしまうので、もしかしたら僕の理解が間違っているのかもしれません。
最後は千葉さんがラスボス的なハイテンションで登場。まずは宮﨑裕助氏の『判断と崇高』からパラサブライムという超越性をズラすコンセプトを引き出しながら、さらにその否定性をズラして造形性の問題に接続する。千葉氏の発表は徹底して崇高の縦方向の運動を斜め横方向にズラす、つまり「盛りズラす」運動への読み替えに基づいていた。その延長に「パラマウンド」のコンセプトがある。もう一つ、イメージ=表象(representation)の時限を考えるときに常に問題になってきていた現前/再現前の問題のズラしも印象に残った。これはジャン・リュック・ナンシーの解釈に基づくものだが、re-presentationのre-を「再」ではなく「強調」として捉えるというもの。
それぞれの発表の後は休憩を挟んで共同討議へ。討議の場ではすでに午前3時に近かったこともあって完全にはコンテキストを追えていなかったので印象に残った発言などを自分のツイートから抜き出すと、「星野:representationを再現前という意味で捉えるようになったのは20c、複製技術が登場してから。それまではrepresentationとpresentationの間に違いはなかった。」、「加治屋:ローゼンブラムの批評以降のアメリカ美術における崇高概念の扱われ方はマイナー。オクトーバーの創立メンバーによる「現代の美術における美と崇高」とか80年代にクーンズに言及したスティッキーサブライムとか少ない事例はある。」、「星野:生成という事を強調するならmetamorphosとtransformationは区別すべき。上にいくmetaではなく横にも動くtransを重視するべき」、「千葉:パラマウンドという概念は多幸症的なもので生が切り詰められるのではなく分身を生み出すような盛り上がりで、n次創作につながる。」など。
このイベントについてはこちらに@nnnnnnnnnnnさんによる Togetterのまとめがあります。このまとめにはイベントに先行する岡崎乾二郎氏と宮﨑裕助氏との間の美と崇高をめぐる議論も含まれていますので、ぜひ読んでみてください。 descresverssiluc.wordpress.com

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03-03-10

これまでの「芸術係数」

「芸術係数」は2006年に始まった「関係性の美学」の勉強会が元になっています。勉強会のメンバーは、学芸員、キュレーター、会社員、主婦、NPOスタッフ、アーティスト、学生など様々です。参加者のほとんどは、AIT(Art Initiative Tokyo)というアートNPOの運営する美術の学校「MAD(Making Art Different)」の講師や生徒で、AITでの出会いが勉強会につながりました。。

現在の参加者数はだいたい7-8名で、毎月1回集まって英文テキストを読んでいます。最初の「関係性の美学」は、まだ日本語訳が出版されていないということで、日本語版の出版を目指してじっくりと時間をかけて読み進めました。結局「関係性の美学」は昨年の9月頃に読み終えたのですが、翻訳を進めていく中でテキストに使っていた英語訳がフランス語の原本との対照でとても問題のあるものであることがわかり、フランス語にあたりながら再度翻訳を直しています。この作業は6月中には終わらせようと思っています(キリッ

その後、二冊目のテキストとして「Aesthetics of Risk」というアンソロジーに取り組んでいます。これは、南カリフォルニア地区のアート関係の大学や学部に所属する研究者や在野の批評家の連合体であるSouthern California Consortium of Art Schools (SoCCAS)が主催、Getty Research Instituteがホストして2006年に開催されたシンポジウムの内容をもとに編集したものです。各論考は基本的に独立しているので、はじめから読み進める必要はないのですが、私たちは全体のアウトラインを把握するために序章から読み進めています。ここまで序章を読み進める限りでは、ウルリッヒ・ベックの「危険社会」やアンソニー・ギデンズらの「再帰的近代化」の議論が大きな前提となって話が進んでいて、それに加えて前回読んだあたりからパフォーマティヴィティの概念を軸にパフォーマンス・アーティストの身体と主体化の問題、その政治性に関する話題が出てきています。この辺の話はさして目新しいものではありませんが、現代アートをめぐる言葉をより広い文脈に接続する試みの一つとして捉えて、読み進めていこうと思っています。

読書会は特に決まったスペースを持っていませんので、毎回都内の公共施設や貸し会議室を借りて実施しています。決まった会費はなく、その時々の参加者で会場費を折半するという、まったく自主的にアートについて勉強したい人の集まりです。今読んでいるテキストはかなり社会学的な傾向の強いものですが、今後はもう少し美術史よりのものを読んでいくのも良いかなあと思っています。参加者は基本的に自由ですので、興味のある方はinfo(at)gjks.org (※「(at)」を「@」に変更してお送りください)まで、メールでお問い合わせ下さい。

そして、この勉強会を拡大する形で、よりアクチュアルなアートの言葉を学びそれを共有する場所として、今月から「芸術係数ダイアローグ」としてトークイベント、または作者を招いての読書会、を開催することになりました。もともとは自分たちが関心のある話題についてもっと知りたい、という動機からはじめようと思ったことなですが、今のアートをめぐる言葉を物足りなく思う人たちと共有したいとも思っていますので、よろしくお願いします。

辻憲行

Denitrifikace .

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