06-07-12

〔ノート〕『全体芸術様式スターリン』ボリス・グロイス

目次

序にかえて
はじめに―スターリン文化をどう記述するか

第1章 ロシア・アヴァンギャルド―進歩を越える跳躍
白い人類
赤い煽動

第2章 スターリン流〈生の技術〉
世界文化の最後の審判
非在のタイポロジー
デミウルゴスの地上の化身

第3章 ポストユートピア芸術―神話から神話系へ
失われた地平線
ホムンクルスとしてのアヴァンギャルド画家
スターリンの高弟たち
詩人という警官
残酷な才能
クレムリンの年代記作者

第4章 下意識のデザイナーとその慣習

“現代世界のあらゆるユートピアは芸術を源としている。…こうした伝統的な理想を拒む今日のポストモダン芸術もまた新しい世界を、いかなる言語も様式も芸術において同等の代表権をもちうる多元的民主的世界を企図している。ただし芸術は、貨幣や他の商品と交換される商品になることだけはけっして望まない。いいかえれば芸術は、現在のあるがままの世界と、そこで芸術が実際に占めている位置とを承認したくないのだ。芸術と世界の間のこの断絶は…、世界を芸術の枠内にとどまらずじっさいに現実においてつくりかえようとする欲望を生み出すことになる。
今世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドは生そのものを変えてしまおうとするもっともラディカルな試みのひとつだった。生を変えるために…やはり世界を変えようとしていたマルクス主義と連帯した。…マルクス主義もまた、芸術的理想を生活の中で実現することをめざしていたドイツ・ロマン主義を源としていた。したがってどの労働者も、事物と自分の生活をまるごと創りだす自由な創造者すなわち芸術家とならなければならない。
…そのためには、生産ではなく消費を日々の課題としていた支配階級は根絶されねばならなかった。まさにそれによって芸術と創造は、消費者とその偏狭な嗜好から、市場から、貨幣の権力から解放される。またこうして芸術的な営みとして了解された労働は自由に発展していくための無限の可能性を手にする。
しかしじっさいには、誰にも買われず欲しがられず、消費者を持たない芸術はその価値を失った。…消費と交換の圏域から排除された芸術は価値を失い、誰にも必要のないがらくたの山と化した。”(pp.7-9)

新しさの創出としての芸術そのものの根本にあるのは交換という操作である。芸術における新しさとは、芸術家が芸術の伝統を非芸術と交換するときに…生まれる。交換をこうして操作するには、芸術における価値のヒエラルキーや美術館という制度、芸術市場、芸術と非芸術の区別が前提となる。社会的に保障された、文化的価値の自律域を一掃し、現実と芸術とを同一視する単一の芸術プロジェクトをもってそれに代えようとすれば、…芸術と非芸術の区別がなくなるのだから、少なくとも創造はもはや不可能となる。現実全体が芸術となり美術館となり、ここではもはや何も変えることができないのだ。”(p.9)

現実に「単一の芸術プロジェクト」によって生活全体を構成してしまったのがスターリンによるソヴィエト体制であった。しかし、ソヴィエトには外部が残されていたため、スターリン以後には新たな芸術的価値を生もうとする実践が生まれた。ソヴィエトの文化は西欧の芸術に対する非芸術であったから。

“芸術がある意味で生活を独裁することの是非をめぐってソ連で議論が戦わされているとき、西欧でもやはり(しかし別のかたちで)芸術が生を吸収するプロセスが生じつつあった。つまりある時点から、…まだ芸術になっていない何かが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ。…伝統的な意味での芸術に携わる芸術家は現代では真の芸術家として認知されない。真の芸術家とは非芸術に携わるものの謂であるとされているのだ。”(p.10)

“たしかにこの世界にはまだ、芸術の分野で使われて来なかった事物がたくさん見つかりはするが、やり口そのものが反復的になってしまったのである。
芸術の一つの時代が危機に瀕している。芸術においてなにがおもしろく、なにが独創的であるかを決める基準が失われ、…なにを創りだすかではなく、作者のキャラクターそのものに関心が移っていく。芸術における女性や民族の表象、性的マイノリティーたちの芸術的表象をめぐる攻防が始まり、社会的になんの特権もない芸術言語や芸術様式の純美学的な表象をめぐる闘争がつづけられている。”(p.11)

こうした「危機」の突破口についてグロイスは予測を避けているが、検討すべき芸術理論の前提について、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、デリダ、リオタール、ボードリヤールらに代表されるポスト構造主義の思想をあげている。ポスト構造主義の基本的な方向性について、グロイスは次のようにまとめている:記号(芸術作品も含む)の物質性(指示対象ではなく記号それ自体の自律的ありよう)を析出し、その意味内容は真理や内的な意図とは無関係に、物質的記号の戯れ、その結合によって生み出されることを示す。「言語はつねにそれ自体の物質的現実をもっており」、「どのような言語も、それ自体〔その物質的な実体〕とは異なる現実(外的=ポジティブな現実であろうと、内的=精神的な現実であろうと)を提示することはできない」(p.12)のである。

“こうして「世界についての真理」という伝統的な芸術理解は批判されている。有限の物質的な言説では無限の真理を提示することは出来ないとされているからである。だがそれと同時にポスト構造主義的な言説は、記号の無限の戯れ(デリダ)、無限の解釈と物語(リオタール、ボードリヤール)、無限の欲望(ラカン、ドゥルーズ)等をも重視する。ここでは物質的記号の無限の戯れは、従来どおり、ある一定の現実として了解されている。人間と言語は、無限の神、無限の理性、無限の精神、あるいは無限の合理的自明性へのよすがを喪失するが、そのかわり宇宙と歴史をつらぬく欲望の無限の奔流に内包される。”(pp.12-13)

しかしグロイスは「欲望の無限の奔流」は記号の媒体ではありえないと指摘する。「記号が物質的であるなら、記号は書物、絵画、映画、録音、ヴィデオといった物質的な担い手をもっている」はずだから。記号の無限の戯れは想像的なものであって、それは物質的に記録されなければリアリティを獲得できない。

“こうした場合、芸術家は、社会に承認されたもろもろの価値と特権化されていない現実との間の仲介者ではなくむしろ、既に記録された言語経験のアーカイブと言語的想像力の潜在的に無限である戯れとの間の仲介者なのだ。このとき、芸術家が社会的に特権化されていない実践行為の記号を比較的頻繁に用いるとしても、それはこうした実践と固有の想像力の戯れとの間に本質的なアナロジーを見ているからにすぎない。”(pp.13-14)

記号の無限の戯れは、物質的な記録=アーカイブなしにはリアリティを持ちえないのであって、その点で芸術作品(物理的な保存の対象となる)と非芸術=生活(物理的に保存されない)との間の差異が完全に消えることはない。

“芸術がどのようにして現在の危機から脱することになるのかはわからないにしても、なんらかの突破口があることだけは確信していい。…生活を芸術に従属させる全体主義的な企てによっても、現実をありのままに美的かつ芸術的に表象することをもくろむ民主主義的な企てによっても、芸術と生活のあいだの境界を完全に取り払うことはできないからである。芸術と生活のあいだの境界を取り払うことに見合うのは、ただ死の克服のみなのだ。…ユートピアはすべてこの究極の境界を克服することをめざし、いかなるユートピアもこれを実現できなかったのだ。”(pp.14-15)

“モダニズムは商業的な娯楽芸術を克服しきれず、逆に戦後、マーケットの消費者に左右される娯楽芸術という単一の潮流へなしくずし的に統合されていくが、西欧のポストモダニズムは、そのようにして敗北し去ったモダニズムに対する反動として現れたのだった。…多くの芸術家たちはもろもろの価値を懐疑的に見つめなおし、「選ばれてある」という自負や、自分たちこそ新しい聖職階級であるといったモダニズム美学の全体主義的な自負を拒むようにもなった。いまやこうした自負は、自分たちが個人的創造を拒み、引用と商業文化のできあいの形式とのアイロニカルな戯れとに移行しているのだという新たな衒いにとって代わられた。とはいえ、芸術的理想の純粋さを保つことだけがこの移行の目的なのである。”(p.30)

ソヴィエトのソッツアートは、みずからの純粋さと潔白さといういかなる幻想をも排除する、モダニズムの全面勝利という状況の中から生まれた。ソッツアートはそれゆえ、「別様のもの」の「トリヴィアルなもの」を生む目新しさやオリジナリティを拒みつつも、芸術家が権力志向と不可分や芸術的意図の担い手でありつづける、ということを意識している。西欧の芸術家にとっての市場がそうであるように、ソヴィエトの芸術家は権力を自分とは関わりのない外部として対置させることはできない。…ソッツアートの画家や作家たちは、自分たちの芸術実践の根底にある芸術的意図と権力への意志とが同一のものであるという認識をけっして手放さない。彼らは逆にこの同一性をこそ自分たちの芸術的な省察=反映の主たる対象とし、人を倫理的に安心させる対立の図式だけが好んで示される環境にあって、あえてこの隠れた同一性を誇示してみせるのである。
「国家規模の芸術作品としてのソヴィエト体制」という現代の芸術的省察は、その内部において、他のアプローチでは到達しえないきわめて多くのことがらを明るみに出してくれる…”(pp.30-31)

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05-05-12

〔ノート〕『明るい部屋』ロラン・バルト


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