04-03-12

リチャード・ローティ「幼少期を語る」

“Richard Rorty talks about his childhood″に日本語字幕を付けました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

[字幕]
インタビュアー:小学校ではどのような子供でしたか?

ローティ:学年が上がるにつれて人見知りが激しくなった。
いじめが怖くていつも怯えていた。
学校の活動には消極的だった。
とにかく学校から離れたかった。

インタビュアー:なぜですか?

ローティ:ただ、気まずさを感じて、仲間に入れなかった。

インタビュアー:何かきっかけが?

ローティ:わからない。
幼少期の非社交的ふるまいの記憶だよ。

インタビュアー:学校ではひとりぼっちでしたか?

ローティ:7、8歳になるまでの記憶はあまりはっきりしていない
子供の頃は転校を繰り返していた。
7つか8つの小学校に通ったよ。
どこに行っても友達ができるか不安だったし、実際できなかった。

インタビュアー:なぜでしょう、シャイだから?

ローティ:わからない。

インタビュアー:ずっとそうですか?
それとも子供の頃だけ?

ローティ:人付き合いはずっと苦手だよ。
子供の頃よりはずっとましにはなったが。
パーティはなるべく避けている。
世間話が苦手なんだ。

インタビュアー:シャイで、同級生との交流を避け続け、
7、8回も転校したということですが、
誰かがあなたに読書の楽しみを教えたのでしょうか?

ローティ:ええ。両親は私が4歳になった頃から
読書するよう私に言い聞かせた。
それ以来、人生のほとんどの時間を
読書に費やしてきたよ。

インタビュアー:あなたには外の世界よりも本の中が、
重要だった?

ローティ:ああ、ずっと重要だった。
現実の世界は本の世界ほど
すばらしいものではなかった。
美しい風景や自然、動物、鳥、草花など
いくつかの例外はあったけれど。

インタビュアー:本を読みながらどんなことを
思い描いていたのですか?

ローティ:権力、支配、全能感、
子供なら誰もが見るような幻想だよ。
自分は王の落し胤だとか、そういう
ことを空想していたよ。

インタビュアー:権力、支配…学校では望んでも手に
できなかったものですね?

ローティ:多分私は、知識の力で、いじめの
仕返しをしたかったんだろう
それが可能なのか、自分ではわかってなかったが。

インタビュアー:知識人になっていじめっ子を見返して
やろうと?

ローティ:いや、知的世界に生きることで、彼ら
との関係を断ち切ったんだよ。

インタビュアー:小学校を出てからも状況は
同じでしたか?
俗悪な日常を避け、本の中の空想の
世界に生き続けたのでしょうか?

ローティ:私は幸運なことに、
十五歳で大学に入ることができた。
それは特別な大学の特別なコースで、
誰もが本の話ばかりしていて、
私には理想の場所だった。
私は初めて物事を自分で掌握できる
感覚を持つことができた。

インタビュアー:幼年期から青年期に、自分は哲学者に
なるべきだと感じていましたか?

ローティ:哲学の世界に進んだのは偶然だった。
歴史や文芸批評を仕事にしていた
可能性もあった。
私がたまたま…
十六歳のときに一番熱心に通ったのが
哲学科の授業だった。
その後も哲学科に残り、次から次に
学位を取得したわけだ。

インタビュアー:なぜそこにそれほどの魅力を
感じたのですか?

ローティ:それは哲学的思考から得られる成熟と
支配の感覚だろう。
哲学書を読んでいると、
物事を秩序付け、理想的な状態に
整えているという感覚を抱く。
その感覚は、人の支配欲を
明確にしてくれる。

インタビュアー:シャイな自分への埋め合わせとして?

ローティ:ええ。

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12-06-11

リチャード・ローティ「プラグマティズムについて」に日本語字幕を付けました。

“Rorty on Pragmatism”に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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12-04-11

リチャード・ローティ「不確定性について」に日本語字幕を付けてみました〔改訂版〕

リチャード・ローティ「不確定性について」の改訂版です。翻訳を見なおして、字幕の位置を移動しました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら
改定前の動画はこちら

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12-03-11

リチャード・ローティ「真理について」に日本語字幕を付けてみました〔改訂版〕

リチャード・ローティ「真理について」の改訂版です。翻訳を見なおして、字幕の位置を移動しました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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11-19-11

リチャード・ローティ「不確定性について」のテキスト

動画はこちら:リチャード・ローティ「不確定性について」

ローティ:私は、不確定性が人類の本来的状態である、と言いたいのではありません。

特定の層の人々は、きわめて予測可能な生活を送っています。

伝統的な地域社会に生きる人や、日に14時間も働き、残りは寝るだけという悲惨な生活を送る人の生活には、ほとんど不確定な側面はないでしょう。

ですから、哲学者たちが大げさに語るような意味での不確定性は、ぜいたく品なのです。

彼らは、本棚の知識すべてを詰め込もうとして、本を読みすぎて、何を信じて良いか不確かになったのですよ。

日本語訳:辻憲行

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11-18-11

リチャード・ローティ「真理について」のテキスト

動画はこちら:リチャード・ローティ「真理について」

ローティ:私はプラグマティズムが、「真理」の理論的基礎付けや、その定義について考察するようになったことを、残念に思っています。

プラグマティストたちはこう言えばよかったのです:“「正当化」について語ることはできるが、「真理」について語るべきものは何もない。私たちは信仰を「正当化」することができる。私たちは信仰を「正当化」するために「真の」という形容詞を使う。そうして信仰は「正当化」されることなく「真理」となる。以上が我々の知り得る「真理」のすべてである。”

「正当化」は人の見方に関わるが、「真理」は「真理」以外の何ものとも関係しません。

それ自体としか関わらないものについて、何も言うことはありません。

大文字の「真理」とは神のようなものであって、神について語るべきことはわずかしかないでしょう。

だから神学者たちの言葉は否定神学となるのです。

今日のプラグマティストたちは「真理」を定義不能とするわけですが、私たちはその使い方を知っているのですから、定義など必要ないのです。

インタビュアー:ニーチェに倣えば、「真理はない、解釈だけがある」と?

ローティ:その言葉は、プラグマティストの一般的な考え方を言い表しています。どのような記述、あるいは解釈も、他の記述より真実に近いと言うことはできません。いくつかの記述はある特定の目的により効果的である、それ以上のことは言えません。ニーチェの遠近法主義に倣えば、“解釈を昇華させたり、掘り下げたりしても真理を手にすることはできない”ということです。これは、“プラグマティストは現実と外観の区別を放棄した”という私の指摘と実質的に同じことなのです。

日本語訳:辻憲行

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06-07-11

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会 最終回

*中止になりました。突然の告知となってしまい申し訳ございません。

芸術係数の読書会のお知らせです。
対象図書はリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳)です。

前回は第I部を読み終えました。今回は最終回ということで第II部「アイロニズムと理論」までを含め、全体をまとめたいと思います。

参加のお申し込みはこちら

===

『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会
日程=2011年6月18日(土) 17:30-
場所=千早地域文化創造館
参加費=300円
定員=16名
対象図書=リチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳

対象範囲=第II部の第6章まで
進行方法=当日までに対象範囲を通読して(必須)、(できれば)分からないところ、重要に思うところなどをチェックしておいてください。

千早地域文化創造館
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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04-13-11

〔ノート〕”Philosophical Investigation”- Ludwig Wittgenstein

ヴィトゲンシュタインの言語と意味をめぐる考察「哲学的探究」。テキストはヴィトゲンシュタインの著作の英訳をまとめたPDFファイル

1. …These words, it seems to me, give us a particular picture of the essence of human language. It is this: the individual words in language name objects–sentences are combinations of such names.–In this picture of language we find the roots of the following idea: Every word has a meaning. This meaning is correlated with the word. It is the object for which the word stands. …Now think of the following use of language: I send someone shopping. I give him a slip marked “five red apples”. He takes the slip to the shopkeeper, who opens the drawer marked “apples”; then he looks up the word “red” in a table and finds a colour sample opposite it; then he says the series of cardinal numbers–I assume that he knows them by heart–up to the word “five” and for each number he takes an apple of the same colour as the sample out of the drawer.–It is in this and similar ways that one operates with words.–“But how does he know where and how he is to look up the word ‘red’ and what he is to do with the word ‘five’?”–Well, I assume that he acts as I have described. Explanations come to an end somewhere.–But what is the meaning of the word “five”?–No such thing was in question here, only how the word “five” is used.(pp.2-3)

ラテン語によるアウグスティヌスの言葉に続く記述。アウグスティヌスの言葉は以下:
「すなわち、年長者たちが或るものの名を呼び、その音声に従って、身体を或るものの方へ動かしたとき、私は、そのものを私に示そうと思う際には、彼らはその発する音声によってそのものを呼ぶということを見て、覚えた。彼らがそのものを私に示そうとすることは、いわば万民共通の自然の言語によって明らかであった。そしてこの言語は、顔つき、目つき、その他四肢の動き、音声の響きからできていて、もの求め、手に入れ、斥け避けようとする心の動きを示すものである。このように、いろいろな言葉がさまざまな文句のうちにしかるべきところで用いられているのをしばしば聞いて、私はそれらの言葉がどのようなものの符号であるかを推知するようになった。そして私の口はそれらのしるしに慣れてきて、私はもう自分が心に思うところそれらによって告げるようになった。」(黒田亘編訳『ウィトゲンシュタイン・セレクション』平凡社ライブラリーより)
アウグスティヌスのこの記述は、「言語はそれに対応した意味を持つ」という言語観を象徴しているとヴィトゲンシュタインは見なしている。節の後半部では日常的な場面(5つの赤りんごの買い物をする)での言語の使われ方(「意味」よりも「使用」が優先される)を例にあげ、アウグスティヌス的な言語観に疑問を呈している。

2. That philosophical concept of meaning has its place in a primitive idea of the way language functions. But one can also say that it is the idea of a language more primitive than ours.
Let us imagine a language for which the description given by Augustine is right. The language is meant to serve for communication between a builder A and an assistant B. A is building with building-stones: there are blocks, pillars, slabs and beams. B has to pass the stones, and that in the order in which A needs them. For this purpose they use a language consisting of the words “block”, “pillar”, “slab”, “beam”. A calls them out;–B brings the stone which he has learnt to bring at such-and-such a call.–Conceive this as a complete primitive language. (page 3)

アウグスティヌスの記述を「完全な原始的な言語機能」観として、現場監督AとそのアシスタントBのコミュニケーションの場面にパラフレーズする。Aが声に出す「ブロック」、「柱」、「スラブ」、「はり」に応えて、Bはそれぞれに対応するパーツを差し出すというもので、言語とそれが示すものがぴったりと対応しているという言語観である。

3. Augustine, we might say, does describe a system of communication; only not everything that we call language is this system. And one has to say this in many cases where the question arises “Is this an appropriate description or not?” The answer is: “Yes, it is appropriate, but only for this narrowly circumscribed region, not for the whole of what you were claiming to describe.”
It is as if someone were to say: “A game consists in moving objects about on a surface according to certain rules…”–and we replied: You seem to be thinking of board games, but there are others. You can make your definition correct by expressly restricting it to those games. (Page 3)

アウグスティヌスの記述は、非常に限定された条件下でのみ正しいといえる。それはまるで一定のルールに従ったゲームのようなコミュニケーション・システムで、AとBのやり取りは、その場限りの言語、つまりその場限りのルールに基づいてのみ機能しているコミュニケーションの道具として理解することができる。

5. If we look at the example in §1, we may perhaps get an inkling how much this general notion of the meaning of a word surrounds the working of language with a haze which makes clear vision impossible. It disperses the fog to study the phenomena of language in primitive kinds of application in which one can command a clear view of the aim and functioning of the words. A child uses such primitive forms of language when it learns to talk. Here the teaching of language is not explanation, but training. (Page 4)

ある言葉に一般的に対応する意味という考え方は、原始的な仕方で実際に機能している言葉をかえって不透明にしてしまう。
原始的な形式で言語を学ぶ子供にとって、言葉を教えることは「説明」というより「訓練」である。

6. We could imagine that the language of §2 was the whole language of A and B; even the whole language of a tribe. The children are brought up to perform these actions, to use these words as they do so, and to react in this way to the words of others.
An important part of the training will consist in the teacher’s pointing to the objects, directing the child’s attention to them, and at the same time uttering a word; for instance, the word “slab” as he points to that shape.; for instance, the word “slab” as he points to that shape. (I do not want to call this “ostensive definition”, because the child cannot as yet ask what the name is. I will call it “ostensive teaching of words”.–I say that it will form an important part of the training, because it is so with human beings; not because it could not be imagined otherwise.)
…But if the ostensive teaching has this effect,–am I to say that it effects an understanding of the word? Don’t you understand the call “Slab!” if you act upon it in such-and-such a way?–Doubtless the ostensive teaching helped to bring this about; but only together with a particular training. With different training the same ostensive teaching of these words would have effected a quite different understanding. (pp.4-5)

7. …We can also think of the whole process of using words in (2) as one of those games by means of which children learn their native language. I will call these games “language-games” and will sometimes speak of a primitive language as a language-game.
And the processes of naming the stones and of repeating words after someone might also be called language-games. Think of much of the use of words in games like ring-a-ring-a-roses.
I shall also call the whole, consisting of language and the actions into which it is woven, the
“language-game”.(page 5)

8. Let us now look at an expansion of language (2). Besides the four words “block”, “pillar”, etc., let it contain a series of words used as the shopkeeper in (1) used the numerals (it can be the series of letters of the alphabet); further, let there be two words, which may as well be “there” and “this” (because this roughly indicates their purpose), that are used in connexion with a pointing gesture; and finally a number of colour samples. A gives an order like: “d–slab–there”. At the same time he shews the assistant a colour sample, and when he says “there” he points to a place on the building site. From the stock of slabs B takes one for each letter of the alphabet up to “d”, of the same colour as the sample, and brings them to the place indicated by A.–On other occasions A gives the order “this–there”. At “this” he points to a building stone. And so on.

11. Think of the tools in a tool-box: there is a hammer, pliers, a saw, a screw-driver, a rule, a glue-pot, glue, nails and screws.–The functions of words are as diverse as the functions of these objects. (And in both cases there are similarities.)
Of course, what confuses us is the uniform appearance of words when we hear them spoken or meet them inscript and print. For their application is not presented to us so clearly. Especially when we are doing philosophy!(page 6)

15. The word “to signify” is perhaps used in the most straightforward way when the object signified is marked with the sign. Suppose that the tools A uses in building bear certain marks. When A shews his assistant such a mark, he brings the tool that has that mark on it.
It is in this and more or less similar ways that a name means and is given to a thing.–It will often prove useful in philosophy to say to ourselves: naming something is like attaching a label to a thing. (page 7)

43. For a large class of cases–though not for all–in which we employ the word “meaning” it can be defined thus: the meaning of a word is its use in the language.(page 21)

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04-07-11

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会vol.4

<震災の影響により開催を延期しておりました読書会のご案内です。>

芸術係数の読書会のお知らせです。
対象図書はリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳)です。

*読書会は以下のような内容を考えておりますが、今回は3.11以降の諸々の事態についても考えてみたいと思います。今起きていることを考えるにあたって、本書の内容はいろいろ示唆に富んでいると感じています。

前回はデイヴィドソン(本書中ではデイヴィッドソン)の議論を取り上げ、言語が真理や表現の媒体であるという伝統的な言語観及びそれにともなう主体-客体の描写が批判され、言語を道具として、そしてそれによって記述される知識や道徳の歴史的展開をメタファーを駆使した再記述としてとらえようとする態度が提案されていました。また、言語的コミュニケーションは何らかの「取り決め」にもとづいて遂行されるのではなく、互いの間で「つかのまの理論を収束させる能力がある」ことによって行われるのだというデイヴィドソンの思想とTwitter上でのコミュニケーションのあり方や通信プロトコルとの類似を確認しました。

今回はp.40からになります。当初の予定より大幅に遅れていますので、今回は出来るかぎり内容をまとめて進行して行きたいと思います。また、HP上でも情報を少しずつアップデートして行きますので、参加希望の方はぜひそちらもご覧になっておいて下さい。

前回不参加の方も、前回までのまとめを紹介する時間またはHP上で公開したいと思っていますので、フォローできると思います。

参加のお申し込みはこちら

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『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会
日程=2011年4月24日(日) 13:30- (3時間程度を予定しています)
場所=千早地域文化創造館
参加費=300円
定員=16名
対象図書=リチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳

対象範囲=第3章まで
進行方法=当日までに対象範囲を通読して(必須)、(できれば)分からないところ、重要に思うところなどをチェックしておいてください。

千早地域文化創造館
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分

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03-07-11

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会の参考リンク 4

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』読書会に関連して、政治哲学者のアイザイア・バーリンに関するリンクをまとめました。

Wikipedia – アイザイア・バーリン

Wikipedia – 自由論 (バーリン)

アイザイア・バーリン

二つの自由概念

無知のヴェールから出られない – 12 『アイザイア・バーリン 多元主義の政治哲学』

Hello, How Low? – ’10読書日記84冊目 『ロマン主義講義』アイザイア・バーリン

カメレオンと孔雀――マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石塚雅彦・藤田雄二訳(みすず書房、2004年)に寄せて
森 達也(専修大学兼任講師)

Take It Easy – [読書]2011 読書日記1冊目 『ロマン主義講義』 アイザイア・バーリン

一〇〇年目のアイザイア・バーリン 『アイザイア・バーリン 多元主義の政治哲学』刊行によせて 上森 亮

電撃かたつむり通信(仮) – アイザイア・バーリン『北方の博士 J・G・ハーマン』

CiNii 国立情報学研究所 – 近代合理主義批判の諸思想 : アイザイア・バーリンの所説をめぐって 多田 真鋤[pdf]

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