04-08-12

芸術係数4月の勉強会のお知らせ:「What is a Photograph?」を読む

 
Margaret Iversen の「What is a Photograph?」を読む勉強会を開きます。

「What is a Photograph?」はロラン・バルトの「明るい部屋」を文学作品ととらえ、かつジャック・ラカンの「精神分析の四基本概念」の注釈として読解するという論文です。著者はエセックス大学教授のマーガレット・アイバーセン。ラカンやフロイトの精神分析の諸概念の入門にも良いと思います。

バルトの「明るい部屋」は副題(写真についての覚え書き)にもあるように写真論として書かれたものですが、その写真論は徹底して鑑賞者の立場からの考察であり、写真を見ることについての物語になっています。バルトはバルト自身が特定の写真に抱く欲望を出発点として写真の本質を読み解こうと試みており、アイバーセンはそのようなバルトの考察の道筋が、「精神分析の四基本概念」でのラカンによる、見る主体の構造分析を理解するのに役に立つと考えています。

「What is a Photograph?」は単にアートとしての写真についての論考ではなく、私たち鑑賞者が芸術作品をどのように見ているのか、について考える助けになると思います。

対象テキストはMargaret Iversen, Beyond Pleasure: Freud, Lacan, Barthes (Refiguring Modernism)に収められています。

勉強会では、このテキスト(英文でB514ページほど)を2回に分けて読み進めます。会の前半に私の訳文を読み進め、後半で内容を含めた訳の検討や質問の時間を設けるという構成で進行したいと思います。テキストや訳文は当日配布します。

参加申し込みは予約フォームからお願いします。

<参考図書>
ロラン・バルト「明るい部屋」

<関心があれば>
ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」
Rosalind Krauss, The Optical Unconscious

===
日時:2012年4月21日(土)13:30-
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円

郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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03-11-12

[翻訳]「ショウマン-アーティスト カスパー・ケーニッヒ インタビュー」ノエミ・スモリク

 
カスパー・ケーニッヒ(ルートヴィヒ美術館館長)の1994年のインタビューです。タイトルでもわかる通り、インタビュアーはキュレーターであるケーニッヒをアーティストとして(皮肉も含めて)見ているようです。インタビューの中でも触れられていますが、ケーニッヒはアート界でのキャリアをアメリカやカナダでスタートさせ、その後ドイツに戻りデュッセルドルフのアート・アカデミーでパブリック・アートの学科を設立。1988年にはフランクフルトのシュテーデルシューレ芸術大学の学長に就任し、同時に大学付属ギャラリーのポルティクスで数多くの展覧会を企画。2000年に現職に就き、2009年に2012年11月までの任期で契約を延長しています。上記のアカデミックな活動と平行して数多くの展覧会を企画したキュレーターでもあります。ヨーロッパのアートシーンにおけるケーニッヒの最大の功績は北米のコンセプチュアリズムを実践のレベルでヨーロッパに移入したことでしょう。とりわけその影響はフランクフルト近代美術館(MMK)のコレクションに見て取ることができます。
インタビュー中最も興味深いのは「ドクメンタ」展について話している箇所ではないでしょうか。同展が戦後ドイツの政治的状況(東西の分割)を背景に持つことはよく知られた事実ですが、ケーニッヒはその意義を「フランスやアメリカ(つまり戦勝国)のコスモポリタニズムの擬装」にあると指摘しています。それによって未来への希望を失ったドイツの若者たちに未来を示すことができるのだと言います。この発想は、政治的、社会的問題それ自体を熟議によって解決することよりも一つのビジョンを示すことによって共感の力を呼び覚ますという選択に基づいているのではないかと思います。

原文はThe show man – interview with artist Kasper Koenig – Interview

 
「カスパー・ケーニッヒ インタビュー」ノエミ・スモリク

昼夜を問わず、カスパー・ケーニッヒは動いている。展覧会オープニング、アート・フェア、シンポジウムのパネリスト。まるで、現代アートの世界で何かが起きるとき、そこには必ずケーニッヒの姿があるかのようだ。新しい潮流を探し、古い友人たちと握手を交わし、新世代のアーティストを表舞台に上げる。 国際的なアートシーンについて彼以上に 知り尽くしている人物はいないだろう。ケーニッヒは自らのキャリアを、大学での単位取得の代わりに、船の上の生活から始めた。それは彼の知的好奇心からの一時的な気晴らしだった。「ドクメンタ」展のアシスタントをつとめた後アメリカへ渡り、1968年にはファクトリーでウォーホルのストックホルム美術館での展覧会の準備に関わった。1970年代には数年間をカナダで過ごし、ハリファックスのノバスコシア美術デザイン大学で教鞭をとりつつ、いまではよく知られている、同大学の出版事業を立ち上げた。1978年にドイツに戻り、彼の名を国際的に知らしめることとなった大規模な展覧会企画に着手した。それらの中でもよく知られているのは、「ウェストクンスト(WESTKUNST)」展(ケルン/1981年)、「ここより(Von hier aus)」展(デュッセルドルフ/1984年)、「スカルプチュア・プロジェクト(Skulptur Projekte)」(ミュンスター/1987年)、「割れた鏡(Der Zerbrochene Spiegel)」展(ウィーン、ハンブルク/1993年)などである。ケーニッヒは現在、国立フランクフルト芸術大学シュテーデルシューレの学長と大学付属ギャラリー「ポルティクス(Portikus)」のディレクターを兼務している。

ノエミ・スモリク(以下NS):あなたは芸術大学の学長で、国際的に著名なキュレーターで、美術界の多くの権威ある委員会のメンバーですが、どうしたらこのような地位を手にできるのでしょうか?

カスパー・ケーニッヒ(以下KK):委員会に関しては、関心のあるものの場合にだけ引き受けるようにしています。戦略的な理由ではなく、あくまでも自分の興味に基づいてのことです。そういった自由があるのは、シュテーデルシューレでの仕事のおかげです。私はその職を7年間つとめており、その前はデュッセルドルフのアカデミーにいました。フランクフルトでの学長職は一時的なもので、能力と学生からの評価の組み合わせで選出されるのです。

NS:あなたがアートに関心を持ったきっかけは?

KK:それは環境の産物です。元々は建築やランドスケープ・アーキテクトに関心があったのですが、60年代の初めに現代美術への興味が芽生えたのです。当時その領域は信じがたいほどにオープンだったのです。

NS:あなたは伝統的な高等教育を受けていませんね。アメリカやカナダでの経験がその代わりになったのでしょうか?

KK:そうですね。私は同年代のドイツ人とは異なった履歴を持っています。他方で、私はアメリカで過ごす間に、アメリカのプラグマティズムを学んだのです。アメリカ人は常に目的達成型の考え方をしています。例えば、芸術的、詩的、ユートピア的目標とその具体的実現との間の矛盾といったような、とても複雑な主題について考える場合でもそうなのです。

NS:ドイツに戻ったあなたが最初に手がけたのは「ウェストクンスト」展でした。展覧会の意図はなんだったのでしょうか? なぜこのようなタイトル[西の芸術]を選び、そこにはどのような思惑があったのでしょうか。

KK:展覧会のタイトルは「Weltkunst(世界芸術)」の言葉遊びであり、現在では時代遅れとなった帝国主義思想の意図的な歪曲なのです。加えてその言葉は、1939年以来のヨーロッパの現実−東西の分裂−ということを想起させるという点において、歴史的であると同時に現代的で政治的な意味を持つのです。ですから、そのタイトルが示唆しているのは単なる「地方主義」ではありません。「ウェストクンスト」のねらいは芸術の革新であって、そこでは芸術作品こそが中心的役割を果たすのです。私たちの狙いは、あるクオリティや立場を可視化することでした。それは国際的なシーンに適応する展示であり、主張することを意図した展示でした。

NS:例えばどのような?

KK:私たちは、モダン・アートは消耗し尽くされたのではなく、むしろ第二段階に入ったということと、重要なアートは常に例外であり、規範にはならないということを信念として持っていました。展覧会は、芸術が生活様式に同化しうるものであるという幻想に対抗するものでした。

NS:あなたが次に手がけたのは1987年にミュンスターで開催されたサイト・スペシフィック彫刻の展覧会でしたが、それは芸術の大衆化の問題を的確に取り上げていましたね。

KK:クラウス・ブスマンのキュレーションによる1977年の「スカルプチュア」展は近代彫刻の歴史の概観としての展覧会でした。そこで私は現代部門を担当し、サイト・スペシフィック彫刻を展示しました。ブスマンと私の両方が感じたことですが、展覧会に参加したアメリカ人アーティストたちはヨーロッパのアーティストに比べてより無頓着に芸術の公共性の問題を取り扱っていました。10年後の「スカルプチュア・プロジェクト」は、この公共空間における芸術の役割という問題を追求しています。観客は今回の展示を10年前のものとの関係の中で見ることになります。そして彼らは、ミュンスターという町そのものを見るのです。その町は第二次大戦中に4回以上の破壊を経験し、戦後は住民たちに以前と同じ町に住んでいる感覚を与えるように復興されたのです。もちろんそれは過去の残響でしかありません。カリフォルニア、英国、スペインなど、別の国や地域から参加したアーティストたちが、この状況を取り上げて作品を制作したのです。それに私はミュンスター育ちですから、展覧会には私の個人的な側面もありましたね。

NS:ミュンスターの展覧会は次のような問いを提起していたように思われます:芸術はどの程度大衆を必要とするのか?

KK:本質的な次元で、アートがそのような意味で大衆を必要とするのかどうか、私には確信がありません。私はパブリック・アートの偉大なる擁護者ではありません。私は逆に、そのことに対して懐疑的なのです。展覧会に参加した多くのアーティストたちと同じく。しかし、数人のアーティストがその問題に取り組んだことは、非常に重要でした。そこには多くの論争がありました。例えば、当時ジェフ・クーンズの参加は一部のドイツ人作家にとって、理解しがたいものでした。

NS:あなたにとって「パブリック」が意味するものは何でしょうか?

KK:「パブリック」という概念は、「非公共」や「プライベート」といった対義語との対比においてのみ意味を持ちます。私はそれを、いくぶん19世紀的なアイディアだと思っています。TVのトーク番組などはパブリックとプライベートの境を曖昧にします。つまり、観衆への投映と擬似的な親密さの感覚を同時に実現するのです。

NS:公共空間との関係で言えば、あなたはよく、芸術の「闘技的潜在力」に触れています。その潜在力はどこにあるのでしょうか。

KK:それはまず、芸術の持つ、アイディアを複雑化する力に、そして、ありふれた政治的発言を混乱させる力に、存在します。芸術外の目的に芸術を従わせることはどのような場合においても問題です。それによって芸術はラディカルであることをやめ、アート・ワールドの現状を維持し続けるだけの存在に堕してしまうのです。

NS:にもかかわらず、あなたは芸術の政治的、社会的、経済的側面を常に強く意識していますね。

KK:ええ、そうです。しかしそれは芸術が社会を変えられるなどという幻想に基づく考えではありません。私は、芸術は常に再帰的なものだという考えに基づいて仕事をしています。芸術の再帰的特性がアートに社会性を付与するのです。

NS:その次にあなたは80年代の作品を取り上げた「ここより(von hier aus)」を手がけました。そこにはどのような判断基準があったのでしょうか。

KK:「ここより」展はアイロニカルな側面を持つ展覧会でした。私は西ドイツのアートを取り上げる展覧会を企画することになっていましたが、それは、契約によって、すみやかに開催されなければならなかったのです。しかし、その展覧会が提起しようとしていた問題に関して、私は疑問を抱いていました。私は徹底的に、国家主義的な視点を 避けようとしていました。その企画には巨大なスペース−10,000平方フィート以上の広さの産業遺構−が会場として用意されていましたので、私はその展覧会を、仮想の都市空間として構想しました。参加アーティストは、この「都市」の中に自分の作品のための家を構想し、展覧会で実現させたのです。ヘルマン・チェックが展示設計を担当しました。

西ドイツにはニューヨークやパリのような世界的大都市は存在せず、多くの脱中心的なハブが点在しているのです。私はミュンヘン、シュトゥットガルト、カールスルーエを訪れ、特定の様式や世代に属するアーティストたちの中から、それぞれ2、3人ずつ選出しました。私の意図は、価値判断を示すことにではなく、多様性を示すことにあったのです。そのため、数人の批評家からポスト・モダンの遊園地のようだ、などと揶揄されることになったのでしょうね。

NS:「ここより」展は、あなたがミュンスターで示したような社会的コンテキストへの直接的な関係も、美術史の概観のような意図もなかった。あなたは「自律的」な芸術を追求していた。それが意味するものは何でしょうか?

KK:キュレーター、つまり媒介者の立場から言えば、それはここのアーティストや作品を正当に評価するということです。それは象徴的な意味ではなく、具体的な意味でそうしなければならないのです、つまり展覧会の設計の問題として。例えば、展覧会の経費とその結果とは相関性がありますし、作品のリアリティはその背景にある思想と不可分であり、その知的および感情的次元は作品の物質的な具現化によって初めて開かれるのです。

NS:非常に多くのキュレーターは媒介者ではなく、自分たちをアーティストとみなしているようです。そんな彼らの企画する展覧会は一種の「総合芸術」作品の様相を見せています。

KK:私は自分がアーティストだとは考えていません。キュレーターの発言というのは比較的つまらないものです。それに彼らの信念を示すために、作品を使うことはできません。私は作品とプロフェッショナルな関係を結ぶようつとめてきました。作品とのプロフェッショナルな関係とは、作品についてより的確に言及するため、虚心に、関心を持って、常に新しい関係を結び続けることです。

NS:あなたの企画する展覧会はどのような機能を持つのでしょうか。そもそも芸術は何の役に立つのでしょうか?

KK:芸術の効能について推察するには、それを体験するほかありません。そしてその体験は社会的なものです。芸術作品の受容はかなりの程度社会状況に依存します。しかし、それは同時に個人的なものでもあります。いかなるときにも、いく通りもの方法で芸術を体験することが可能です。つまり、私たちは芸術の効果について語ることはできず、ただ個別の芸術作品や〔社会的〕コンテキストの効果についてのみ語るとこが可能なのです。私はアーティストの芸術的行為から、社会的文脈に貢献できる、使える道具を生み出す可能性に関心があるのです。

NS:先日あなたが企画した展覧会「割れた鏡(Der zerbrochene Spiegel)」は絵画作品だけを取り上げていましたね。それ以外の形式に興味を失ってしまったのでしょうか?

KK:そんなことはありませんよ。私はその展覧会を芸術の省察の機会だととらえました。「割れた鏡」はハンス・ウルリッヒ・オブリストと私が1992年に編集したあるアンソロジーから発展した展覧会です。そのアンソロジーでは、様々なアーティストやライターに「大衆の目(public view)」をテーマにした作品の制作を依頼しました。印刷物のページそれ自体が作品のメディウムであって、作品の複製ではないのです。「割れた鏡」展では、それが逆になりました。アンソロジーの制作を依頼したとき、絵画は時代遅れであると感じながら絵画作品を制作するアーティストがいたことは、きわめて印象深い事実でした。その事実によって、私は絵画作品を制作するアーティストだけを集めた展覧会の企画に導かれたのです。シュテーデルシューレでは、芸術の理論的問題に関心を抱きつつも、いまだ絵画の伝統にこだわり続ける学生によく出会います。この矛盾は非常に興味深い。「割れた鏡」展は断じて後退ではありません。それが投げかける問いは芸術の理論面においても実践面においても追求する価値のある問いなのです。

NS:現代は不安に覆われています。モダニズムのユートピア的計画は放棄されて久しいですし、我々の向かう先を見渡すことはできません。以前あなたは、芸術大学の教師はこのことを認める勇気を持たなければならないと話していました。「割れた鏡」はこの不安な時代に対する保守的な反応なのではありませんか?

KK:物事の行く末がわかっていた、などと述べるのは無思慮な態度です。しかし、かつて何があったのか、これからどうなるのか、と問うことは非常に重要です。美術史について深く考察しながら、それでも絵画の制作をやめない重要なアーティストが多く存在するという事実が、私には興味深いのです。

NS:あなたは次回の「ドクメンタ(Documenta)」のディレクター就任に関心を見せていました。そのためになにかアプローチをしましたか?

KK:その職を得るための特別な活動はしていませんが、もちろん関心を持っていますよ。私はヨーロッパ、とりわけドイツの、すっかり変わってしまった社会的、政治的、そして経済的状況について問うてきました。「ドクメンタ」はそれらの問題について議論を提起するのにうってつけの場所なのですから。なぜならその国際展はナチの独裁以降の戦後ドイツにおいてきわめて重要な位置を占めているのです。

NS:確かに「ドクメンタ」は敗戦後のドイツの政治的状況から生まれました。ならば、人はこう問うべきです、それはまだ意味を持つのか、と。

KK:そう、それは戦後の産物です。もともとのアイディアは、破壊されてしまった国に生きる若者たちに国際的な連帯の感覚を持たせるため、ドイツ国内に擬似的なコスモポリタンを作るというものでした。「ドクメンタ」展の支援者たちはホロコーストの罪を若者たちに負わせ続けることは馬鹿げたことだと考えていたのです。彼らに開放感と可能性を与えることこそが重要なのだと。時が過ぎ、「ドクメンタ」は企業のスポンサーシップとメディアの騒音を伴って巨大化しました。だから私は、とても身近にあった抑圧的ユートピア(カッセルは旧東ドイツとの国境に非常に近いのです)の失敗の歴史を振り返りつつ、 来るべき未来 を芸術によって示すために、大きくなりすぎた「ドクメンタ」をスケールダウンさせようと考えたのです。その規模を少し縮小して、「ドクメンタ」からイベント性を取り去るつもりでした。そうすることで、最終的にマイノリティ−例えばアーティストたち−の救いになるような作品を取り上げることができたでしょう。もちろん、すべての人に対してオープンにすることなどできませんが。

NS:あなたは「ドクメンタ」に今でも意義があることを確信しているようですが。

KK:それは正しい問いかけではありませんね。「ドクメンタ」は、その内容を再検証した上で、新しく定義され直して初めて意義を持つのです。

NS:「ドクメンタ」は他の数多くの大規模国際展のモデルでもあるわけです。しかし、そのディレクターはたった一人で、大きな権力を手にすることになります。あなたはそのような権力の集中に関して倫理的な問題を指摘していました。

KK:キュレーターとして作品を評価する際、私は、アーティストが妥協をしていないかどうか、作品に対して責任を負っているかどうかに注目します。そのやり方は完全に正当なものです。私は、委員会形式で芸術についての正当な判断を 下すことができるとは思いません。判断は明確ではっきりとしたものでなければなりません。

NS:あなた自身、ドイツ国内のみならず世界的に大きな影響力を持っています。あなたは権力者であると言って良いでしょう。そのことはあなたにとって悩みの種になっていませんか?

KK:いいえ。私は自分の仕事に対してシニカルになることはありません。シニシズムに陥りそうになったら別のことに取り組むのです。ナイーブに聞こえるかもしれませんが、それが私の考え方です。

NS:芸術における転換点はどうやって見極めるのでしょうか。

KK:それには、それに気づかせてくれる良い友人を持つことです。そして言うまでもなく、アーティスト、特に若いアーティストと接し続けることです。そういうつながりが、私をリアリティにつなぎ止めてくれるのです。

NS:あなたは日頃からアーティストたちへの評価を下し続けていますね。自らの判断に疑いを持ったことはありませんか?

KK:私の自信は好奇心に基づいています。そして、ディーター・ロットからトニー・アウスラーまでの59回にわたる、1987年以来のポルティクスでの私の企画が最良の答えになるでしょう。

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11-30-11

マルセル・デュシャン「創造的行為」のテキスト

動画はこちら:マルセル・デュシャン「創造的行為」に日本語字幕を付けました。

1957年のアメリカ芸術家連盟の総会で、マルセル・デュシャンは「創造的行為」という講演を行いました。このブログのタイトルになっている「芸術係数」という言葉はこの講演の中で使われたデュシャンの造語です。この講演は、創造行為において鑑賞者の鑑賞行為を、アーティストの制作行為に等しい重要性を持つものとして明確に評価した画期的なものでしたが、「芸術係数」は、鑑賞者の創造行為のために用意される素材として数理的な表現で語られています。

この講演の日本語訳は、瀧口修造訳が「創造的過程」というタイトルで、『マルセル・デュシャン語録』に収められています。

芸術創造の二つの重要な極について考えてみよう。一方はアーティストであり、もう一方は作品を後代に伝える鑑賞者である。
アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。

T.S.エリオットは『伝統と個人の才能』で「苦悩する人間としてのアーティストと、作品を作り上げる精神の分離が完全であるほど、アーティストは完璧になる。つまり、彼の精神は、作品の素材となるその情熱をより完全に消化し変質させることができるようになるのである。」
数多くのアーティストが作品を生み出し、そのうち数千ほどが鑑賞者の話題に登り、受容される。そしてそれよりはるかに少数のものが後世に伝えられるのである。

要するに、アーティストは自らの才能を大々的に宣言するだろうが、彼の言葉が社会的に容認され、彼の名が美術史の中に書き込まれるためには、鑑賞者による評決を待たなければならないのだ。

このような声明が、媒介者としての役割を拒絶し、創造的行為における彼ら自身の自意識の有効性を主張する多くのアーティストの賛同を得られないことは当然のことであろう。しかし、美術史において作品の評価を決定するのは、アーティストによる理性的な作品の説明とは全く関係の無い考察を通じてである。

自分自身と世界に対する究極の目的を抱く人間存在としてのアーティストが、彼自身の作品の評価に関してなんの役割も果たさないのだとしたら、作品に対する鑑賞者の反応を促す現象を、どのように記述すれば良いのだろうか?言い換えれば、その反応はどのように生じるのか?

この現象は、絵の具、ピアノ、大理石などの無機物が引き起こすアーティストから鑑賞者への美的浸透における転移の現象と比較することができる。

しかし、話を進める前に、「芸術」という言葉に関する私たちの了解事項を明確にしておきたい。もちろん、それを定義することなしに。

私が考えているのは、良い作品であれ、悪い作品であれ、それなりの作品であれ、どのような形容詞をつけようとも、それを芸術と呼ぼうということだ。悪い芸術もそれが芸術であることには変わりがない、ちょうど悪い感情も感情であるのと同じように。

したがって、「芸術係数」について話すとき、私は偉大な芸術についてだけ話しているのではなく、悪いものであれ、良いものであれ、そこそこのものであれ、生の状態の芸術を作り出す主観の働きについて話しているのである。

アーティストは創造行為の中で、自分の意図から始まって、完全に主観的な反応の連鎖を通じて作品の実現へと至る。アーティストによる実現への奮闘は、一連の努力、苦しみ、満足、拒絶、決定であり、少なくとも美的な側面では、それらを完全に意識的に制御することは不可能であり、また、そうすべきでもない。

この奮闘の結果はアーティストの意図と実現された作品の違いに、つまり彼が自覚していない違いに現れる。

結果として、創造行為に伴う一連の過程では、あるつながりが失われている。作品に自分の意図を表現しようとするアーティストの不能を示すこの断層、彼が表現しようと意図したことと実現された作品との間のこの差異が、作品に含まれている個人的な「芸術係数」なのである。

言い換えるなら、個人的な「芸術係数」は、意図されながら表現されなかったものと、意図せず表現されたものとの間の数学的な関係のようなものである。

誤解を避けるために付け加えると、私たちはこの個人的な「芸術係数」は芸術の生の状態に過ぎないことを心に留めておかなければならない。それは、糖蜜から砂糖を抽出するように鑑賞者によって「精製」されなければならないのである。係数の数値は鑑賞者の作品に対する評価とは何ら関係がない。創造的行為は鑑賞者が変位の現象を経験するとき、別の様相を見せる。不活性な素材から芸術作品への変容によって、物質の実体が変化し、鑑賞者は作品の美的価値を決定する役割を担うことになるのだ。

つまるところ、創造的行為はアーティストだけで完遂されるものではないのだ。鑑賞者は作品に内在する質を翻訳し、解釈することによって、作品と外部世界とのつながりを生じさせ、そうして創造的行為に加わるのである。このことは、後世の人々が作品の最終的な評価を下したり、忘れられたアーティストを再評価したりする場合により明らかになる。

日本語訳:辻憲行

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11-24-11

ミシェル・フーコー「規律社会について」part2のテキスト

動画はこちら:ミシェル・フーコー「規律社会について」part2ですが、動画の音声が消えているので、近日中に再度アップします。
*動画の訳をかなり修正しています。

「監獄は、規律訓練システムの一部でしかありません。私が規律訓練システムと言うときには、それらの制度によって組織された社会のことを言っているのではありません。
私が規律訓練システムと呼ぶものは、監獄のような全制的施設よりもはるかに有機的な合理性を持つのです。この点が私とゴフマンとの違いです。
内部組織を伴う現実の諸制度において、私が規律訓練システムと認めるのは、一種の合理性のようなもので、人々の行動様式や振る舞いを統治するための、最も経済的で最も効果的な手段なのです。
規律訓練システムの試みが始まって1世紀以上が過ぎたとき、人々はこのシステムが全く経済的でなく、多くのコストがかかることに気づきました。そして規律訓練システムよりずっと効果的で目立たないやりかたで、人々を統治する方法を手にしたのです。
実例を挙げましょう。18世紀初頭フランスでの大規模工場の運営手法には、一般検査や厳格なルールの適用などの点で、規律的合理性のモデルがはっきりと見て取れます。そして18世紀後半の大規模な炭鉱開発が行われると、政府は兵士を炭鉱夫として送り込み、その後炭鉱夫を兵士として流用しました。軍隊は、優れた規律訓練型組織と考えられており、労働者階級は効率的労働のため軍隊で訓致されることが望まれたのです。
しかし、1820年代あるいは30年代には、人々は、労働者を効率的に組織するには、軍隊モデルよりも、保険や銀行などのモデルの方が、はるかに適していることに気づいたのです。
それ以降、社会統治技術は、社会保険システムに基づいて発展するようになりました。それは規律訓練システムより、はるかに効率的で、かつ受け入れやすいシステムだったのです。」

日本語訳:辻憲行

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11-21-11

ミシェル・フーコー「規律社会について」part1のテキスト

動画はこちら:ミシェル・フーコー「規律社会について」part1
*動画の訳をかなり修正しています。

「私がこの著作で述べたかったことは、監獄の誕生から規律社会が始まった、ということではありません。その全く逆のことを述べようとしたのです。
その分野について研究していたとき、私は次のような問題に気づいたのです。
18世紀の社会改革について書かれた書物を読んでみれば、当時、すべての監獄システム対して、非常に強い抵抗があったことがわかるでしょう。
その理由はとても単純なもので、少なくともフランス、イタリア、ドイツ、そしてイギリスでは、監獄は刑罰ではなかったのです。それは行政上の手段と言えるものではなく、法制度の外部に存在する人々を、君主権力の執行として牢獄に送り、共同体から排除する目的で存在していたのです。
ですから、牢獄は、人民が求めるより良い刑法上の正義を実現する方法としては全く不適切なものだったのです。
18世紀の中頃には、監獄に対する批判は一般的なものになりました。そして18世紀末にはフランスやドイツなどで新しい刑法が施行され、あちこちに監獄が作られたのです。当時、投獄は刑罰主要な手段でした。
このような転換を生み出したのは何か、それがこの本の主題なのです。私はその理由を次のように考えます。
監獄が君主権力の恣意性の象徴であるにもかかわらず、投獄は刑罰としてだけでなく、囚人や収容者を矯正するために適切な手段であり、非常に良い道具になり得ると考えられたのです。そして人間の意識や態度、好みなどを変えることが可能であると気づかせたのが、規律訓練の技術だったのです。規律訓練の技術は、17世紀の中頃から学校や軍隊で用いられていたのです。人々は古代の牢獄をモデルにするのではなく、学校や軍隊をモデルに刑務所を作り出したのです。
つまり、刑罰制度は、他の諸制度において発展した規律訓練システムの表出、あるいは最終的帰結と見なすことができるのです。そしてよくあることに、ある制度における規律訓練技術の採用は、再び新たな制度領域での規律訓練技術の展開のモデルとなるのです。
この点において、ベンサムの「パノプティコン」は非常に興味深いものです。ベンサムは、理想的な監獄のためにパノプティコンを考案したのであり、よい監獄とは他の規律訓練制度と同様に、人々を矯正するものでした。そう考えると、パノプティコンは工場や学校にも応用可能というわけです。」

日本語訳:辻憲行

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11-10-11

〔翻訳〕「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」ソル・ルウィット

一つ前のポストで紹介した「バルデッサリ、ルウィットを歌う」で歌われていたルウィットの「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」の日本語訳です。初出は1969年発行の”0-9 (New York)” 及び “Art-Language (England)”1969年5月号。このテキストは1973年発行の”in Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972″ルーシー・リッパード編、にも掲載されています。
原文はこちら

「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」
ソル・ルウィット

1. コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というより神秘主義者だ。彼らが飛躍する結論には、論理では到達できない。
2. 合理的判断は、合理的判断を繰り返す。
3. 非合理的判断は、新しい経験をもたらす。
4. 形式主義の芸術は本質的に合理的だ。
5. 非理性的思考は、絶対的かつ論理的に跡づけることができる。
6. もしアーティストが制作途中に考えを変えたなら、作品は妥協の産物になり、過去の模倣となる。
7. アーティスト個人の意志は、着想から完成までのプロセスにおいて副次的なものである。彼の意図は単なるエゴでしかない。
8. 絵画や彫刻という言葉は、伝統の全体とその受容を意味しており、その言葉の使用は、伝統を乗り越える作品を渋々制作しようとするアーティストたちに制約を課すことになる。
9. コンセプトとアイディアは別ものだ。前者が全体的な方向性を定めるのに対し、後者はその構成要素なのだ。アイディアはコンセプトの手段である。
10. アイディアそれ自体で作品たり得る。アイディアは形へと発展するかもしれない一連の[思考の]流れの中にある。すべてのアイディアが物質化される必要はない。
11. アイディアは必ずしも論理的秩序に従って展開されるわけではない。それは思いもよらない方向に発展することもある。だがあるアイディアは、次のものが形成される前に、心の中で感性されなければならない。
12. 成立した作品のそれぞれには、形にならなかった多くのバリエーションが存在する。
13. 作品はアーティストの心から鑑賞者の心への導体である。しかしそれは鑑賞者に届かないかもしれないし、アーティストの心に留まるかもしれない。
14. アーティスト同士の言葉のやりとりが、アイディアの連鎖を生むことがある。彼らが同じコンセプトを共有しているなら。
15. 他の形式より本質的に優れた形式は存在しないのだから、アーティストは(文章でも語りでも)
言葉の表現からモノとしての表現にいたるまで、あらゆる形式を利用することができる。
16. 芸術のためのアイディアに基づいて言葉を使うならば、その言葉は芸術であって文学ではない。同様に数字が用いられた場合、それは数学ではない。
17. 芸術に関するすべてのアイディアはそれ自体芸術であり、芸術の伝統の枠内にある。
18. 人は過去の芸術を、現在の決まり事に当てはめて理解してしまう。そのため、過去の芸術を誤解することになる。
19. 芸術の決まり事は、個別の作品によって変えられる。
20. 良い作品は、私たちの感覚を変え、そうして決まり事に対する理解も変える。
21. 様々なアイディアを知ることが、新しいアイディアへと導く。
22. アーティストは自らの作品のイメージを持つことはできないし、作品が完成するまで、それを自覚することはできない。
23. あるアーティストが作品を誤解する(作者とは違った理解をする)ことがある。しかしその誤解が彼の思考の連鎖を触発することもある。
24. 認知とは主観的なものだ。
25. アーティストが、必ずしも自身の作品を理解している必要はないかもしれない。アーティストの見識は他の人々に比べて優れているわけでも劣っているわけでもない。
26. アーティストが、自分の作品より他人の作品をより良く理解することがある。
27. 作品のコンセプトには、素材や制作プロセスが含まれることもある。
28. アーティストの心に作品のアイディアが生まれた時点で作品の最終形態は決まるのであり、作品の制作は盲目的に遂行される。その際には、アーティストが気づかない多くの副産物が生み出される。それらは、新しい作品のアイディアとして活かされることもあるだろう。
29. 制作プロセスは機械的であって、みだりに操作するべきではない。それが進むに任せなければならない。
30. 芸術作品には数多くの要素が含まれるが、最も重要なのは最もあからさまな要素だ。
31. アーティストが素材を変えながら複数の作品に同じ形式を用いる場合、彼のコンセプトには素材が含まれていると考えられる。
32. 陳腐なアイディアを美しく仕上げることはできない。
33. 良いアイディアをだめな作品に仕上げるのは難しい。
34. 過剰な技術を身につけたアーティストの作品は、表層的なものになる。
35. 以上の文はアートについてのコメントであって、アートではない。

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