05-05-12

〔ノート〕『明るい部屋』ロラン・バルト

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目次


1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」―その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意に捉えること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」―部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場
24 前言取り消し


25 《ある晩…》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 仔細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い慣らされた「写真」

“ずいぶん昔のことになるが、ある日、私は、ナポレオンの末弟ジェロームの写真(1852年撮影)をたまたま見る機会に恵まれた。その時私は、ある驚きを感じてこう思った。《私が今見ているのは、ナポレオン皇帝を眺めたその眼である》と。”(p.7)

“「写真」が数限りなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は…機械的に繰り返す。”(p.9)

“「写真」は絶対的な「個」であり、輝きがなく、いささかばかばかしい、この上もなく「偶発的なもの」であり、ただ単なる「これ」である…要するにそれは、テュケー(運命)の、機会の、遭遇の、現実界の飽くことのない表現である。”(p.9)*英語版を参照して訳に変更を加えています。

“私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。…私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。”(p.15)

“技術的には、「写真」は二つのまったく異なった手順が交わるところにある。一つは化学的性質にもとづくもので、…もう一つは、物理的性質にもとづくもの…「観客」にとっては、「写真」は本質的に、いわば対象の科学的啓示=現像(レヴェラシオン)から生ずる…「撮影者」にとっては、「写真」は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)の鍵穴によって切り取られた視像と密接に結びついている…”(p.17)

“「撮影者」のこうした感動(「写真」のこうした本質)を私は決して知らないので、それについて語ることは不可能だった。…私の手の届く範囲には、ただ二つの経験しかなかった。すなわち、眺められる主体としての経験と、眺める主体としての経験である。”(pp.17-18)

“「写真」がもたらした混乱は、結局のところ、所有権の混乱である。法律はそれなりにこのことを告げている。写真は誰のものなのか?被写体…のものなのか?写真家のものなのか?風景そのものも、その土地の所有者から…の借用物にほかならないのではないか?…無数の訴訟が示しているように見えるのは、所有こそ存在の基盤であるとする社会の、所有権に関するためらいなのである。”(p.22)

“「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。…カメラを向けられると、私は同時に4人の人間になる。すなわち、私が自分はそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間…私は自分自身を模倣してやまないのである。…私は…自分が客体になりつつあることを感じている主体である。”(p.23)

“私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。”(p.25)

“私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。”(p.34)

“ストゥディウム(一般的関心)…は、気楽な欲望と、種種雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い…の問題である。…ストゥディウムは…人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく…無責任な関心である。”(pp.40-41)

“ストゥディウムとは、一種の教育(知と礼儀)なのである。”(p.41)

“「写真」が絵画から生まれたというのは、技術的には正しいが、しかしそれも部分的に正しいというだけである。…画家たちが利用したカメラ・オブスクラは、「写真」を生み出す要因の一つにすぎない…本質的に重要なのは、おそらく化学的発見が行われたということである。”(p.44)

“「写真」が芸術に近づくのは、…「演劇」を通してなのである。…ダゲールは、…シャトー広場(レピュブリック街)で、…パノラマ劇場〔ジオラマ館〕を開いていた。…カメラ・オブスクラは、透視画と「写真」と「ジオラマ」を3つとも生み出したわけであるが、この3つはいずれも舞台芸術なのである。…「写真」は、その中でもっとも「演劇」に近い、と私には思われるが、それは両者が「死」という特異な仲立ちによって結ばれているからである…。演劇と「死者信仰」との原初的なつながりはよく知られている。最初の演技者たちは、「死者」の役割を演ずるにあたって、身を共同体から切り離した。顔に化粧をほどこすのは、身を生きながら死んだ肉体として示すためであった。”(pp.44-45)

“写真はいずれも偶発的なものである(そしてまさにそのことによって、意味の埒外にある)から、「写真」は仮面を着けないかぎり、意味すること(一般的なものを狙うこと)ができない。”(p.49)

“プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。”(p.58)

“ジェームズ・ヴァン・ダー・ジーによって1926年に撮影されたアメリカの黒人一家…そのストゥディウムは明瞭である。…対面を保つこと、家族主義、順応主義、晴れ着を着てかしこまっていること、白人の持物で身を飾るための社会的上昇の努力…である。その光景は私の関心を引く。しかし私を《突き刺し》はしない。”(p.58)

“要するに、ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない。”(p.64)

“「歴史」とはヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない―そしてそれを見るためにはその外に出ていなければならない。”(p.78)

“絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。”(pp.93-94)

“「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。うなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》〔動詞intersum「〜の間にある、相異する、居合わせる」の完了過去〕ということ”(p.94)

“写真を発明したのは…画家ではなく、化学者たちである。というのも、ある科学的事由(銀ハロゲン化合物の感光性の発見)によって、…対象から発した光を直接とらえ固定することが可能になり、そのときはじめて「写真」のノエマ《それはかつてあった》が存在しえたからである。写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。”(p.99)

“写真のまなざしにはなにか逆説的なところがあるが、時にはそれが実人生でも見られることがある。先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の視線はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を見つめているという確信をもったが、しかし彼が私を見ているかどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。見つめていながら、どうして見ないでいられるのか?「写真」は注意を知覚から切り離し、…ただ注意を向けるかのようである。…ノエマのないノエシス、思考内容のない思考作用、標的のない照準である。”(p.137)

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04-24-12

芸術係数読書会:「What is a Photograph?」を読む 第2回

 
Margaret Iversen の「What is a Photograph?」を読む勉強会の第2回です。今回はテキストの後半部分を読み進めます。

「What is a Photograph?」はロラン・バルトの「明るい部屋」をジャック・ラカンの「精神分析の四基本概念」の注釈として読解するという論文です。著者はエセックス大学教授のマーガレット・アイバーセン。ラカンやフロイトの精神分析の諸概念の入門にも良いと思います。

バルトの「明るい部屋」は副題(写真についての覚え書き)にもあるように写真論として書かれたものですが、その写真論は徹底して鑑賞者の立場からの考察であり、写真を見ることについての物語になっています。バルトはバルト自身が特定の写真に抱く欲望を出発点として写真の本質を読み解こうと試みており、アイバーセンはそのようなバルトの考察の道筋が、「精神分析の四基本概念」の見る主体の構造分析を理解するのに役に立つと考えています。

「What is a Photograph?」は単に写真についての論考としてではなく、私たち鑑賞者と芸術作品をどのように見ているのか、について考える助けになると思います。

勉強会では私の訳を使って読み進めますので、それほど英語力は必要ありません。内容を理解することを重視して進行します。
今回は二回目ですが、前回分の訳と資料を配布いたしますので、ある程度キャッチアップできるとは思います。

対象テキストはMargaret Iversen, Beyond Pleasure: Freud, Lacan, Barthes (Refiguring Modernism)に収められています。

参加申し込みは予約フォームからお願いします。

*テキストや参考資料などはFacebookで共有していますので、参加ご希望の方はFacebookアカウントをご用意いただくことをおすすめします。

<参考図書>
ロラン・バルト「明るい部屋」

<関心があれば>
ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」
Rosalind Krauss, The Optical Unconscious

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日時:2012年5月19日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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