01-28-11

〔ノート〕『三つのエコロジー』フェリックス・ガタリ

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目次
1 三つのエコロジー
2 ポストメディア社会に向けて—大阪講演
3 エコゾフィーの展望—沖縄講演

“地球という惑星は、いま、激烈な科学技術による変容を経験しているのだが…こうした激変と並行して、個人的かつ集団的な人間の生活様式もしだいに悪化の一途をたどっている。親族のつながりは最小限に切りちぢめられる傾向にあり、また家庭内の生活はマスメディアの消費のためにむしばまれている。夫婦生活や家族生活は往々にして一種の行動の画一化によって「形骸化」しているし、隣近所とのつきあいも一般にこのうえなく貧しい表現しかとりえないようになっている…これは主観性と外部—その外在性が社会的なもので荒れ、動物的、植物的、あるいは宇宙的なものであれ—との関係が、一種の内部破裂と小児的退行の全体的動きに巻きこまれているということにほかならない。そうなると他性はいっさいの凹凸を失いはじめる。たとえば観光旅行というのは、多くの場合、現地への移動はともなっても結局同じようなイメージと行動の軌跡を描くにすぎない。”(pp.9-10)

⇧冒頭部の引用。ブリオーの社会/政治思想は基本的にこの線に沿っている。

以下3つは「関係性の美学(Relational Aesthetics)」での本書からの引用箇所。

“絵画や文学の創造と同じことで、ひとつひとつの具体的な作業行為が進化と革新と新しい展望を切りひらくという使命を持っているのである。ただしそのさい、作者は何らかのグループや流派、コンセルヴァトワールとかアカデミーなどの権威や確固たる理論的基盤といったようなものを利用することはできない…”(p.27)

“従って今日の課題は、「未来主義的」で「構築的」な潜在的領野の解放である”(p.25)

“しかし現代にいたり、有形無形の物質材・非物質材の生産が個人的・集団的な実在の領土の一貫性をそこなうかたちで激化するのにともなって、主観性のなかに巨大な空洞が生じ、ますます不条理な、どういしょうもない事態におちいろうとしている。”(p.37)

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01-27-11

ニコラ・ブリオーの「オルターモダン宣言」

「関係性の美学(Relational Aesthetics)」の著者であるニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud)が2009年に企画したテート・トリエンナーレ「オルターモダン(Altermodern)」。そのマニフェストが出されていたようなので一度駆け足で翻訳してみたのですが、ググってみるとAltermmodern Manifestoには2種類あることがわかりました。

Tate Britainのページ “ALTERMODERN MANIFESTO – POSTMODERNISM IS DEAD
e-fluxのページ “ALTERMODERN MANIFESTO – POSTMODERNISM IS DEAD

見返すと前回の訳があまりにもひどかったので、両方合わせて再度訳しました。

<Tate Britainバージョン>

ニコラ・ブリオー 「オルターモダン宣言-ポストモダニズムは死んだ」

グローバル化の時代に合わせて再構成された新しいモダニティが生まれつつある。その経済的、政治的、文化的特徴のもとに解釈されるのがオルターモダンの文化である。

コミュニケーション、移動、回遊の機会は増大し、私たちの生き方に影響を与える。

私たちの日常生活は、混乱し、熱気にあふれる世界の旅へと変わる。

クレオール化が多文化主義とアイデンティティという観念に取って代わる:今やアーティストはグローバル化した文化を前提にする。

この新たな普遍主義は、常態化する翻訳、字幕、吹き替えによって基礎づけられる。

今日のアートはテキストとイメージ、時間と空間、それらを編み込むつながりを探すのだ。

アーティストは、これまでにないグローバルな知覚に反応する。彼らは記号であふれた文化の風景を横断し、複数の表現やコミュニケーションの間の経路を創造する。

ポストモダニズムは終わりつつあり、私たちはグローバルなオルターモダニティの誕生を目の当たりにしている。テート・ブリテンで開催されるテート・トリエンナーレ2009は、この前提のもとに集合的な議論を展開する。

<e-fluxバージョン>

旅行、文化交流、歴史の検証は単なる流行りの話題ではない。それは私たちの世界観や生き方が根本的に変化していることの徴なのだ。

概して言えば、グローバルな知覚は新しい種類の表象を求める。私たちの日常生活は、かつてないほどの豊饒さを背景に進行し、いまや超国家的存在や、混乱し、熱気にあふれる世界の旅がそのカギを握っているのだ。

ポストモダニズムが終わりを迎えようとしていることは多くの兆しによって明らかである。惑星規模のクレオール化の進行が多文化主義や同一性の言説に取って代わった。モダニストの普遍主義の代用物だった文化相対主義や脱構築は、画一化や大衆文化、極端な保守主義者の反動に対抗するための武器を与えてはくれなかった。

徹底的にグローバル化した私たちが生きる世界で、その経済や政治や文化を踏まえた上で近代性の再構成を行うこと、それがオルターモダニティである。

20世紀のモダニズムが西洋を発祥の地とするなら、オルターモダニティは地球全体に散らばった様々な文化のエージェント間の交渉や議論から生まれるものだ。それは中心を持たず、多言語的だ。オルターモダニティの言語は翻訳の言語である。20世紀のモダニズムと違って植民地主義の抽象言語は使わず、ポストモダニズムのようにアートを起源やアイデンティティの問題に閉じ込めたりしない。

私たちは字幕が偏在し、吹き替えが全面化した世界へ向かっている。今日のアートはテキストとイメージ、時間と空間、それらを編み込むつながりを探すのだ。アーティストは記号であふれた文化の風景を横断し、複数の表現やコミュニケーションの間の経路を創造する。

アーティストは「旅する人」になる。それはオルターモダンの時代の旅人のモデルとなる。記号と形式の間の彼の軌跡は、現代的な運動、旅、横断の体験の証言となる。この進化は制作方法の変化にあらわれる。新しい形式が出現しつつある。空間と時間の両方に引かれた線によって、到達点ではなく軌跡を具現化する、旅という形式。凝固した空間-時間
ではなく、放浪の過程を表現する形式。

だから、オルターモダンのアートはハイパーテキストとして読まれる。アーティストは、情報をあるフォーマットから別のフォーマットへ翻訳し、あるいはコーディングし、地形と歴史の中をさまよう。彼らの実践は、1960年代の「サイト・スペシフィック」作品に対して、「タイム・スペシフィック」作品と言える。飛行経路、自動翻訳、異質な要素の間をつなぐものは相互に接合している。私たちは時間と空間を共に旅することができる世界に生きている。

ポストモダニズムは終わりつつあり、私たちはグローバルなオルターモダニティの誕生を目の当たりにしている。テート・ブリテンで開催されるテート・トリエンナーレ2009は、この仮説を巡る集合的な議論を展開する。

-ニコラ・ブリオー

日本語訳=辻憲行

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01-26-11

〔ノート〕「Relational Aesthetics」 Nicolas Bourriaud

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Contents
Foreword
Relational form
Art of the 1990s
-Participation and transitivity
-Typology

Space-time exchange factor
Joint presence and availability:The theoretical legacy of Felix Gonzalez-Torres
Screen Relations
-Today’s art and its technological models
-Art and Goods
-The camera and the exhibition
-Post VCR art

Towards a policy of forms
-Cohabitations: Notes on some possible extensions of a relational aesthetics
-The Aesthetic paradigm (Félix Guattari and art)
-Subjectivity pursued and produced
-The aesthetic paradigm

GLOSSARY

「関係性の美学(Relational Aesthetics)」についてのノートです。

序章

“1990年代のアートを取り巻く誤解の原因は、それらについての理論的言説が不足していることに尽きる。大多数の批評家や哲学者たちは、同時代の実践の実体について考察することに嫌悪感を抱いているかのようだ。同時代の実践の本質は、見出されないままである。…もはやある種の問題は提起されなくなったのだ、という実に痛ましい事実を受け入れなければならない。”(p.7)

Clair Bishopの”Antagonism and Relational Aesthetics”(次号の『表象』には、この論文の翻訳が掲載されるようです)に対するリーアム・ギリック(Liam Gilick)の返答(”Contingent Factors: A Response to Claire Bishop’s “Antagonism and Relational Aesthetics””)の中に、「関係性の美学」が執筆されたきっかけが書かれていて、「1990年代のアートを取り巻く誤解」というのが、単に言説レベルにとどまらず、実際の作品鑑賞の現場においても生じていたことが分かる。面白いので要約してみる。
「関係性の美学」はトラフィック展(1996, CAPC Bordeaux)の期間中及び終了後のブリオーの経験に基づいている。CAPCの広報担当者が、トラフィック展について観客をミスリードするようなリリースを出してしまった。彼らはトラフィック展の参加作家たちのことを”interactive-baroque-conceptualism”(さっぱり意味が分からないがとにかくインタラクティブな作品であることを強調している)と紹介したのだ。このような紹介のされ方について一部の参加作家(ギリックを含む)から苦情が出た。さらに、“インタラクティブ”という面を強調してしまったために、複数の作品がアグレッシブな観客によって破壊されてしまった。ということでトラフィック展の参加作家たちのコンセプトや傾向を正しく観客に伝えることを強く要請され、また自分でもその必要性を感じ、「関係性の美学(Relational Aesthetics)」の執筆に至ったという顛末。

“伝統的なアートの規範では取りこぼされていた、手続きや振る舞いを作品形式に含む、見た目では捉えがたい制作物を、1960年代の美術史の陰に身を潜める事から抜け出し、いかにして解読するかが問われている”(p.7)

“実践の場−美術史−においては、伝統的に世界を表象するものとされたアートが、世界とのつながりを生成する事は今なお可能なのか?…現代の芸術的実践は社会実験の豊かな土壌として、また、行動の単一化を部分的に免れる場として現れる。本書で取り扱う作品は、様々な手の届くユートピアのようなものを素描しているのである。”(p.8)

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01-25-11

〔ノート〕『カオスモーズ』フェリックス・ガタリ


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