02-26-11

〔ノート〕光州ビエンナーレ2002「_止_」(Gwangju Biennale 2002 “P_A_U_S_E”)

Catalogue cover of Gwangju Biennale2002

2002年の光州ビエンナーレでは、世界中のオルタナティブ・アート・スペースがアーティストと同列の扱いで展示された。それぞれのスペースは自分たちの活動のコンテクストに合わせ、複数のアーティストを起用して極小規模の展示を行うものや会期中様々な話題についてディスカッションやレクチャープログラムを行うものなどさまざまだった。アーティストの中にもSuperflexに代表されるような狭い意味での作家像から逃れるような存在も散見された。
ディレクションはチャールズ・エッシュとホウ・ハンルウの二人。

会場入り口のバナー  Olaf Nicolai

LOOP  Surasi Kusolwong

Alan Johnston & 小川晋一  Atlier Vow Wow

Para-site  小沢剛

Forum A  Jens Haaning

Superflex  Proroacademy

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02-24-11

ミシェル・フーコー「規律社会について」part2 に日本語字幕を付けてみました。

“Michel Foucault On ‘Disciplinary Society,’ Part 2 ”に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

「ミシェル・フーコー「規律社会について」part1」はこちら

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02-24-11

〔ノート〕『作者とは何か?』ミシェル・フーコー

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目次
作者とは何か?
距たり・アスペクト・起源
空間の言語
《別の歴史》への接近—フーコーの文芸批評をめぐる覚え書
あとがき—豊崎光一の思い出として

「作者とは何か?」

本論は、(1)「個人のなかにある≪深い≫契機=力域(アンスタンス)ある≪創造する≫力、ある≪企て≫、文章記述の資源的な場だと規定」(p.42)されるような特権的な作者像を放棄すること、そのうえで、作者をエクリチュールによって単純に置き換えるのではなく、(2)作者の持つ複雑な機能を分析し、その位置を評定すること、という二つの目的に沿って書かれている。

“《誰が話そうとかまわないではないか》…作者の消失は批評にとって、これ以後日常的な主題となっている。だが肝心なのはその消滅を改めてもう一度確認することではない。作者の機能が作用する位置を、空虚な—関心を惹かぬものではあるが同時にまた拘束的な—場として評定しなければならないのである。”(p.11)

“今日のエクリチュールは表現という主旋律から解き放たれたということができます。…エクリチュールとは記号の遊び(ゲーム)であり、その記号によって意味された内容(シニフィエ)においてというよりもむしろ、…その遊びの姿だということです。しかしまた、…「ゲームの規則」に従ったエクリチュールは、常にその限界をめがけて実地にテストされている…エクリチュールはみずから受容し使用するこの規則性をつねに侵犯し、転倒しつつあるのです。”(pp.20-21)

“ある一人の作者を今問題にしているのだと仮定してみましょう。そのとき、その作者が書いたり語ったりしたすべてのこと、彼が背後に残したすべてのことが彼の作品に属するのでしょうか。これは理論上の問題であると同時に技術的問題でもあります。…作品の草稿はどうか?もちろんです。アフォリスム草案は?入ります。削除部分も同様か?手帳の下の方に示されたメモはどうか?それも入る。しかし、アフォリスムで満たされた手帳のなかに、何かへの参照指示、待ち合わせや住所の記載、洗濯屋のメモが見つかるとき、それは作品か作品ではないのか?しかし、なぜ作品ではないと言えるのか?これが無限に続くのです。…作品の理論というものは存在せず、作品の出版を無邪気に企てる人びとはこのような理論を欠いたままであり、彼らの経験主義的な仕事はそのためにたちまち麻痺してしまいます。”(pp.25-26)

“しかし明白なことながら、作者は消滅したといたずらに空虚な断定のように繰り返すだけでは充分ではない。同様に、神と人間とは相抱いたまま同じ死を死んだと際限なく繰り返すだけでも充分ではない。なさねばならぬことは、作者の消滅によってこうして空無のまま残された空間を評定し、空隙と断層の配分の具合を眼で追い、この消滅が現出せしめる場所と自由な機能との動勢を伺うことです。”(p.30)

“私がシェイクスピアは今日人々が訪れるあの家で生まれなかったということを発見したとしても、これは明らかに作者名の機能を変質させるに至る変化ではないでしょう。しかしもしだれかが、シェイクスピアは彼の作と看做されている『ソネット集』を実は書きはしなかったと証明したら、これは別種の変化であり、シェイクスピアというこの作者名の機能に無縁であることはできないのです。”(pp.32-33)

“作者名は固有名詞のように言説の内部から言説を算出した外部にいる現実の個人に向かうのではなく、いわばテクスト群の境界を走り、テクスト群を輪郭づけて浮きあがらせ、その稜線を辿って、その存在様態を堅持する、あるいは少なくともその存在様態を性格付ける。”(p.36)

“<<作者>>の機能とはしたがってある社会の内部における若干の言説の存在と流通と機能の様態の特徴を指示するものなのです。”(p.37)

“テクストや書物や言説が現実に作者というもの(神話的人物とはちがうもの、聖化されまたみずから他を聖化する大人物とはちがうもの)をもちはじめたとき、その作者とは、処罰されることもありえたというかぎりでの作者、言いかえればそうした言説が侵犯的でありえたというかぎりでの作者でした”(p.38)

“今日われわれが≪文学≫と呼んでいるテクスト類…が、それらの作者を問題にすることなく受け取られ、流通し、価値を与えられていた時代がありました。…ところがある入れ換え(キアスム)が一七世紀あるいは一八世紀に起こりました…《文学的な》言説は機能としての作者を付与されたかたちでしかもはや受け入れられない」”(pp.39-41)

“長い間文学批評が作者を定義してきた—あるいはむしろ現存するテクストと言説に基づいて作者という形式を構成してきた—仕方は、キリスト教の伝統がその管轄下のテクストを公認(あるいは反対に排斥)してきた仕方からかなり直接的に派生していると思われます。言いかえれば、作品のなかに作者を《再び見出す》ために、現代の批評は、あるテクストの価値を作者の聖性によって証明しようとしたときのキリスト教的注釈学と非常に近接した図式を用いているのです。『偉人伝』のなかで聖ヒエロニムスは、名前が同じだというだけではいくつかの作品の作者たちを正当な仕方で同一人なりと判定するには十分ではないという事情を説明して、異なった複数の人間が同一の名をもつこともありえたし、一人が他の人間の姓を濫りに借用することもありえたと語っています。伝承的テクストを問題とするとき、個人の刻印としての名前だけでは充分ではない。”(pp.43-44)

“作者とはまた、一連のテクストのなかに繰りひろげられることのある諸矛盾の超克を可能ならしめるなにものかだという考え方。つまり、作者の思考あるいは欲望、意識あるいは無意識のある地平に、ある一点が―それを出発点とすれば、もろもろの矛盾が解消され、相い容れぬ諸要素がついにはたがいに結びつくか、または根源的・始原的な矛盾のまわりに組織されるような一点が―あるはずだという考え方。”(p.46)

“機能としての作者は言説の世界を取り囲み、限定し、分節する法的制度的システムに結びつく。それは、あらゆる言説の上で、あらゆる時代を通じて、文明のあらゆる形態において、一律に同じ仕方で作用するものではない。それは、ある言説をその産出者へと自然発生的に帰属せしめることによって定義されるのではなく、特殊で複雑な一連の操作によって定義される。それは純粋かつ単純にある現実の個人に送り返すのではなく、複数の自己、分類を異にする個人が占有しにやってくることのできる複数の立場=主体を同時に成立させることができる。”(p.50)

「純粋かつ単純にある現実の個人に送り返すのではなく、複数の自己、分類を異にする個人が占有しにやってくることのできる複数の立場=主体を同時に成立させる」作者の機能について考える。そのような実践の例。そのような作者と関連付けられる作品。

“作者―…それは、おそらくは、機能としての主体の可能な限定特殊化のいろいろなタイプのひとつでしかないのです。”(p.68)

“機能としての作者がけっして現れることなしにもろもろの言説が流通し、受けとられるようなある文化を思い描くことができます。あらゆる言説がそこでは、その身分規定、形態、価値のいかんを問わず、それらに対して向けられる取り扱い方いかんを問わず、囁きの匿名性のうちに繰りひろげられるでありましょう。”(p.69)

*『作者とは何か?』は『フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯』 (ちくま学芸文庫) に所収されています。

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02-22-11

〔ノート〕ニコラ・ブリオーのインタビュー: Touch – Relational Art from the 1990’s to Now

英語で読める「関係性の美学(Relational Aesthetics)」の参考リンクでも紹介している”stretcher: Feature: Reviews: Touch – Relational Art from the 1990’s to Now“というインタビュー記事についてのノートです。
この記事は、2002年にSan Francisco Art Instituteで開催された「タッチ−リレーショナル・アートの10年」展についてのレビューとして掲載されました。ブリオーがキュレーションしたこの展覧会によって「リレーショナル・アート」がまとまった形でアメリカ国内に紹介され、展覧会に合わせて「関係性の美学」の英訳も出版されました。

このインタビューの時点で、ブリオーはパレ・ド・トーキョーのディレクターに就任しており、インタビューはパレ・ド・トーキョーの美術館としては画期的な開館時間についての会話に始まり、「関係性の美学」の主題のひとつでもある、作品形式の時間的側面について対話が進んでいく。ブリオーは通常のインスティテューション〔ここでは美術館やアートセンターなどの制度設計というような意味〕とは異なり、パレ・ド・トーキョーでは市場をモデルにして、都市生活者の日常的な行動様式を受け入れることができるように設計を考えたという。開館時間はそれを象徴的に示すもので、通常の美術館の開館時間は「銀行、郵便局などのビジネス」の時間であり、アートの時間はこれらの実務的な時間とは別の時間であるはずだ、という考えに基づいている。ここには、ブリオーが「関係性の美学」の中で言及した「空間/時間の交換」にもつながる、時間の地図化とでも呼ぶべきコンセプトが見て取れる。「関係性の美学」に対しては、その制度主義的な側面を批判する声があるが、ブリオーは制度を静的な「構造」のようなものではなく、より動的で、可塑性を持つものとしてとらえていたのではないか。ブリオーは、デュシャンの言葉を借りてアートを「ゲーム」であると言ったが、制度に関してもプレイヤーの行動によって動的にルールが変更される可能性を持つ「ゲーム」のようなものとしてみなしていたように思われる。パレ・ド・トーキョーの設計と実装はそのコンセプトの実現と考えられるだろう。
このコンセプトは、ブリオーの美術史への態度とも関連している。60年第70年代の先行する美術の実践の成果に対し、ブリオーはそれらを道具として用いることを推奨する〔これはブリオーのコンセプトのみならず、「関係性の美学」に取り上げられたアーティストたちの実際的な戦略でもある〕。彼〔/彼女ら〕にとって、美術史とは新しさの歴史ではなく、過去の道具を利用し、それを組み替えたり使用法を開発したりすることで、「有効なツール」を生み出し続けることなのだ。「関係性の美学」では、作品を世界の表象ではなく「そのモデル」と定義したが、ここでのブリオーはその考えをより整理させて「作品は可視化された世界との関係」であると言う。つまり、ブリオーにとって芸術の実践とは世界の中で生きるためにより有効なツールを生み出し続けることであり、美術史とはその配置/再配置の歴史である、ということだ。
芸術的実践をこのように記述すること―直接的にガタリとニーチェをその範例とする「関係性の美学」―は、還元/純粋主義や制度主義の語彙のどちらからも距離をとるだろう。

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02-19-11

「ジャクソン・ポロック 51」に日本語字幕を付けてみました。

“Jackson Pollock 51″に日本語字幕を付けてみました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

“Jackson Pollock 51″ (1951) は、写真家のハンス・ネイマス(Hans Namuth)とポール・ファルケンバーグ(Paul Falkenberg) によるドキュメンタリー映画。音楽は「ロスコ・チャペル」のモートン・フェルドマン(Morton Feldman)。

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02-17-11

バートランド・ラッセル「神について」に日本語字幕を付けてみました。

“Bertrand Russell on God (1959)”に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

字幕作成には下記を参考にしました。
IS THERE A GOD? – BERTRAND RUSSELL
Why I Am Not A Christian by Bertrand Russell

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02-17-11

ジェフ・ウォール:「撮影しないことから始める」に日本語字幕を付けてみました。

Jeff Wall: “I begin by not photographing” に日本語字幕を付けました。前半ちょっと怪しいですが、間違いが分かれば更新します。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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02-13-11

〔ノート〕『偶然性・アイロニー・連帯-リベラル・ユートピアの可能性』リチャード・ローティ


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