11-30-11

マルセル・デュシャン「創造的行為」のテキスト

動画はこちら:マルセル・デュシャン「創造的行為」に日本語字幕を付けました。

1957年のアメリカ芸術家連盟の総会で、マルセル・デュシャンは「創造的行為」という講演を行いました。このブログのタイトルになっている「芸術係数」という言葉はこの講演の中で使われたデュシャンの造語です。この講演は、創造行為において鑑賞者の鑑賞行為を、アーティストの制作行為に等しい重要性を持つものとして明確に評価した画期的なものでしたが、「芸術係数」は、鑑賞者の創造行為のために用意される素材として数理的な表現で語られています。

この講演の日本語訳は、瀧口修造訳が「創造的過程」というタイトルで、『マルセル・デュシャン語録』に収められています。

芸術創造の二つの重要な極について考えてみよう。一方はアーティストであり、もう一方は作品を後代に伝える鑑賞者である。
アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。

T.S.エリオットは『伝統と個人の才能』で「苦悩する人間としてのアーティストと、作品を作り上げる精神の分離が完全であるほど、アーティストは完璧になる。つまり、彼の精神は、作品の素材となるその情熱をより完全に消化し変質させることができるようになるのである。」
数多くのアーティストが作品を生み出し、そのうち数千ほどが鑑賞者の話題に登り、受容される。そしてそれよりはるかに少数のものが後世に伝えられるのである。

要するに、アーティストは自らの才能を大々的に宣言するだろうが、彼の言葉が社会的に容認され、彼の名が美術史の中に書き込まれるためには、鑑賞者による評決を待たなければならないのだ。

このような声明が、媒介者としての役割を拒絶し、創造的行為における彼ら自身の自意識の有効性を主張する多くのアーティストの賛同を得られないことは当然のことであろう。しかし、美術史において作品の評価を決定するのは、アーティストによる理性的な作品の説明とは全く関係の無い考察を通じてである。

自分自身と世界に対する究極の目的を抱く人間存在としてのアーティストが、彼自身の作品の評価に関してなんの役割も果たさないのだとしたら、作品に対する鑑賞者の反応を促す現象を、どのように記述すれば良いのだろうか?言い換えれば、その反応はどのように生じるのか?

この現象は、絵の具、ピアノ、大理石などの無機物が引き起こすアーティストから鑑賞者への美的浸透における転移の現象と比較することができる。

しかし、話を進める前に、「芸術」という言葉に関する私たちの了解事項を明確にしておきたい。もちろん、それを定義することなしに。

私が考えているのは、良い作品であれ、悪い作品であれ、それなりの作品であれ、どのような形容詞をつけようとも、それを芸術と呼ぼうということだ。悪い芸術もそれが芸術であることには変わりがない、ちょうど悪い感情も感情であるのと同じように。

したがって、「芸術係数」について話すとき、私は偉大な芸術についてだけ話しているのではなく、悪いものであれ、良いものであれ、そこそこのものであれ、生の状態の芸術を作り出す主観の働きについて話しているのである。

アーティストは創造行為の中で、自分の意図から始まって、完全に主観的な反応の連鎖を通じて作品の実現へと至る。アーティストによる実現への奮闘は、一連の努力、苦しみ、満足、拒絶、決定であり、少なくとも美的な側面では、それらを完全に意識的に制御することは不可能であり、また、そうすべきでもない。

この奮闘の結果はアーティストの意図と実現された作品の違いに、つまり彼が自覚していない違いに現れる。

結果として、創造行為に伴う一連の過程では、あるつながりが失われている。作品に自分の意図を表現しようとするアーティストの不能を示すこの断層、彼が表現しようと意図したことと実現された作品との間のこの差異が、作品に含まれている個人的な「芸術係数」なのである。

言い換えるなら、個人的な「芸術係数」は、意図されながら表現されなかったものと、意図せず表現されたものとの間の数学的な関係のようなものである。

誤解を避けるために付け加えると、私たちはこの個人的な「芸術係数」は芸術の生の状態に過ぎないことを心に留めておかなければならない。それは、糖蜜から砂糖を抽出するように鑑賞者によって「精製」されなければならないのである。係数の数値は鑑賞者の作品に対する評価とは何ら関係がない。創造的行為は鑑賞者が変位の現象を経験するとき、別の様相を見せる。不活性な素材から芸術作品への変容によって、物質の実体が変化し、鑑賞者は作品の美的価値を決定する役割を担うことになるのだ。

つまるところ、創造的行為はアーティストだけで完遂されるものではないのだ。鑑賞者は作品に内在する質を翻訳し、解釈することによって、作品と外部世界とのつながりを生じさせ、そうして創造的行為に加わるのである。このことは、後世の人々が作品の最終的な評価を下したり、忘れられたアーティストを再評価したりする場合により明らかになる。

日本語訳:辻憲行

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11-26-11

ジャック・デリダ「問うことの条件」に日本語字幕を付けました。

“Derrida: “What Comes Before The Question?””に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら
*2002年に制作されたドキュメンタリー『Derrida』より

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11-24-11

ミシェル・フーコー「規律社会について」part2のテキスト

動画はこちら:ミシェル・フーコー「規律社会について」part2ですが、動画の音声が消えているので、近日中に再度アップします。
*動画の訳をかなり修正しています。

「監獄は、規律訓練システムの一部でしかありません。私が規律訓練システムと言うときには、それらの制度によって組織された社会のことを言っているのではありません。
私が規律訓練システムと呼ぶものは、監獄のような全制的施設よりもはるかに有機的な合理性を持つのです。この点が私とゴフマンとの違いです。
内部組織を伴う現実の諸制度において、私が規律訓練システムと認めるのは、一種の合理性のようなもので、人々の行動様式や振る舞いを統治するための、最も経済的で最も効果的な手段なのです。
規律訓練システムの試みが始まって1世紀以上が過ぎたとき、人々はこのシステムが全く経済的でなく、多くのコストがかかることに気づきました。そして規律訓練システムよりずっと効果的で目立たないやりかたで、人々を統治する方法を手にしたのです。
実例を挙げましょう。18世紀初頭フランスでの大規模工場の運営手法には、一般検査や厳格なルールの適用などの点で、規律的合理性のモデルがはっきりと見て取れます。そして18世紀後半の大規模な炭鉱開発が行われると、政府は兵士を炭鉱夫として送り込み、その後炭鉱夫を兵士として流用しました。軍隊は、優れた規律訓練型組織と考えられており、労働者階級は効率的労働のため軍隊で訓致されることが望まれたのです。
しかし、1820年代あるいは30年代には、人々は、労働者を効率的に組織するには、軍隊モデルよりも、保険や銀行などのモデルの方が、はるかに適していることに気づいたのです。
それ以降、社会統治技術は、社会保険システムに基づいて発展するようになりました。それは規律訓練システムより、はるかに効率的で、かつ受け入れやすいシステムだったのです。」

日本語訳:辻憲行

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11-22-11

ガブリエル・オロスコ「ゲームについて」に日本語字幕を付けました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)

芸術係数(‪http://gjks.org‬)

元の動画はこちら

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11-21-11

ミシェル・フーコー「規律社会について」part1のテキスト

動画はこちら:ミシェル・フーコー「規律社会について」part1
*動画の訳をかなり修正しています。

「私がこの著作で述べたかったことは、監獄の誕生から規律社会が始まった、ということではありません。その全く逆のことを述べようとしたのです。
その分野について研究していたとき、私は次のような問題に気づいたのです。
18世紀の社会改革について書かれた書物を読んでみれば、当時、すべての監獄システム対して、非常に強い抵抗があったことがわかるでしょう。
その理由はとても単純なもので、少なくともフランス、イタリア、ドイツ、そしてイギリスでは、監獄は刑罰ではなかったのです。それは行政上の手段と言えるものではなく、法制度の外部に存在する人々を、君主権力の執行として牢獄に送り、共同体から排除する目的で存在していたのです。
ですから、牢獄は、人民が求めるより良い刑法上の正義を実現する方法としては全く不適切なものだったのです。
18世紀の中頃には、監獄に対する批判は一般的なものになりました。そして18世紀末にはフランスやドイツなどで新しい刑法が施行され、あちこちに監獄が作られたのです。当時、投獄は刑罰主要な手段でした。
このような転換を生み出したのは何か、それがこの本の主題なのです。私はその理由を次のように考えます。
監獄が君主権力の恣意性の象徴であるにもかかわらず、投獄は刑罰としてだけでなく、囚人や収容者を矯正するために適切な手段であり、非常に良い道具になり得ると考えられたのです。そして人間の意識や態度、好みなどを変えることが可能であると気づかせたのが、規律訓練の技術だったのです。規律訓練の技術は、17世紀の中頃から学校や軍隊で用いられていたのです。人々は古代の牢獄をモデルにするのではなく、学校や軍隊をモデルに刑務所を作り出したのです。
つまり、刑罰制度は、他の諸制度において発展した規律訓練システムの表出、あるいは最終的帰結と見なすことができるのです。そしてよくあることに、ある制度における規律訓練技術の採用は、再び新たな制度領域での規律訓練技術の展開のモデルとなるのです。
この点において、ベンサムの「パノプティコン」は非常に興味深いものです。ベンサムは、理想的な監獄のためにパノプティコンを考案したのであり、よい監獄とは他の規律訓練制度と同様に、人々を矯正するものでした。そう考えると、パノプティコンは工場や学校にも応用可能というわけです。」

日本語訳:辻憲行

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11-20-11

フランク・ステラ「キャンバスの形を変えること」に日本語字幕を付けました。

“Frank Stella on shaping the canvas″に日本語字幕を付けました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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11-19-11

リチャード・ローティ「不確定性について」のテキスト

動画はこちら:リチャード・ローティ「不確定性について」

ローティ:私は、不確定性が人類の本来的状態である、と言いたいのではありません。

特定の層の人々は、きわめて予測可能な生活を送っています。

伝統的な地域社会に生きる人や、日に14時間も働き、残りは寝るだけという悲惨な生活を送る人の生活には、ほとんど不確定な側面はないでしょう。

ですから、哲学者たちが大げさに語るような意味での不確定性は、ぜいたく品なのです。

彼らは、本棚の知識すべてを詰め込もうとして、本を読みすぎて、何を信じて良いか不確かになったのですよ。

日本語訳:辻憲行

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11-18-11

リチャード・ローティ「真理について」のテキスト

動画はこちら:リチャード・ローティ「真理について」

ローティ:私はプラグマティズムが、「真理」の理論的基礎付けや、その定義について考察するようになったことを、残念に思っています。

プラグマティストたちはこう言えばよかったのです:“「正当化」について語ることはできるが、「真理」について語るべきものは何もない。私たちは信仰を「正当化」することができる。私たちは信仰を「正当化」するために「真の」という形容詞を使う。そうして信仰は「正当化」されることなく「真理」となる。以上が我々の知り得る「真理」のすべてである。”

「正当化」は人の見方に関わるが、「真理」は「真理」以外の何ものとも関係しません。

それ自体としか関わらないものについて、何も言うことはありません。

大文字の「真理」とは神のようなものであって、神について語るべきことはわずかしかないでしょう。

だから神学者たちの言葉は否定神学となるのです。

今日のプラグマティストたちは「真理」を定義不能とするわけですが、私たちはその使い方を知っているのですから、定義など必要ないのです。

インタビュアー:ニーチェに倣えば、「真理はない、解釈だけがある」と?

ローティ:その言葉は、プラグマティストの一般的な考え方を言い表しています。どのような記述、あるいは解釈も、他の記述より真実に近いと言うことはできません。いくつかの記述はある特定の目的により効果的である、それ以上のことは言えません。ニーチェの遠近法主義に倣えば、“解釈を昇華させたり、掘り下げたりしても真理を手にすることはできない”ということです。これは、“プラグマティストは現実と外観の区別を放棄した”という私の指摘と実質的に同じことなのです。

日本語訳:辻憲行

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11-17-11

スティーブ・ジョブズ「ピクサーについて」(1996年10月30日)に日本語字幕を付けました。

“Charlie Rose – Steve Jobs 10/30/1996″に日本語字幕を付けました。
アップル復帰直前のジョブズがピクサーと「トイ・ストーリー」について話します。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

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11-10-11

〔翻訳〕「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」ソル・ルウィット

一つ前のポストで紹介した「バルデッサリ、ルウィットを歌う」で歌われていたルウィットの「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」の日本語訳です。初出は1969年発行の”0-9 (New York)” 及び “Art-Language (England)”1969年5月号。このテキストは1973年発行の”in Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972″ルーシー・リッパード編、にも掲載されています。
原文はこちら

「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」
ソル・ルウィット

1. コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というより神秘主義者だ。彼らが飛躍する結論には、論理では到達できない。
2. 合理的判断は、合理的判断を繰り返す。
3. 非合理的判断は、新しい経験をもたらす。
4. 形式主義の芸術は本質的に合理的だ。
5. 非理性的思考は、絶対的かつ論理的に跡づけることができる。
6. もしアーティストが制作途中に考えを変えたなら、作品は妥協の産物になり、過去の模倣となる。
7. アーティスト個人の意志は、着想から完成までのプロセスにおいて副次的なものである。彼の意図は単なるエゴでしかない。
8. 絵画や彫刻という言葉は、伝統の全体とその受容を意味しており、その言葉の使用は、伝統を乗り越える作品を渋々制作しようとするアーティストたちに制約を課すことになる。
9. コンセプトとアイディアは別ものだ。前者が全体的な方向性を定めるのに対し、後者はその構成要素なのだ。アイディアはコンセプトの手段である。
10. アイディアそれ自体で作品たり得る。アイディアは形へと発展するかもしれない一連の[思考の]流れの中にある。すべてのアイディアが物質化される必要はない。
11. アイディアは必ずしも論理的秩序に従って展開されるわけではない。それは思いもよらない方向に発展することもある。だがあるアイディアは、次のものが形成される前に、心の中で感性されなければならない。
12. 成立した作品のそれぞれには、形にならなかった多くのバリエーションが存在する。
13. 作品はアーティストの心から鑑賞者の心への導体である。しかしそれは鑑賞者に届かないかもしれないし、アーティストの心に留まるかもしれない。
14. アーティスト同士の言葉のやりとりが、アイディアの連鎖を生むことがある。彼らが同じコンセプトを共有しているなら。
15. 他の形式より本質的に優れた形式は存在しないのだから、アーティストは(文章でも語りでも)
言葉の表現からモノとしての表現にいたるまで、あらゆる形式を利用することができる。
16. 芸術のためのアイディアに基づいて言葉を使うならば、その言葉は芸術であって文学ではない。同様に数字が用いられた場合、それは数学ではない。
17. 芸術に関するすべてのアイディアはそれ自体芸術であり、芸術の伝統の枠内にある。
18. 人は過去の芸術を、現在の決まり事に当てはめて理解してしまう。そのため、過去の芸術を誤解することになる。
19. 芸術の決まり事は、個別の作品によって変えられる。
20. 良い作品は、私たちの感覚を変え、そうして決まり事に対する理解も変える。
21. 様々なアイディアを知ることが、新しいアイディアへと導く。
22. アーティストは自らの作品のイメージを持つことはできないし、作品が完成するまで、それを自覚することはできない。
23. あるアーティストが作品を誤解する(作者とは違った理解をする)ことがある。しかしその誤解が彼の思考の連鎖を触発することもある。
24. 認知とは主観的なものだ。
25. アーティストが、必ずしも自身の作品を理解している必要はないかもしれない。アーティストの見識は他の人々に比べて優れているわけでも劣っているわけでもない。
26. アーティストが、自分の作品より他人の作品をより良く理解することがある。
27. 作品のコンセプトには、素材や制作プロセスが含まれることもある。
28. アーティストの心に作品のアイディアが生まれた時点で作品の最終形態は決まるのであり、作品の制作は盲目的に遂行される。その際には、アーティストが気づかない多くの副産物が生み出される。それらは、新しい作品のアイディアとして活かされることもあるだろう。
29. 制作プロセスは機械的であって、みだりに操作するべきではない。それが進むに任せなければならない。
30. 芸術作品には数多くの要素が含まれるが、最も重要なのは最もあからさまな要素だ。
31. アーティストが素材を変えながら複数の作品に同じ形式を用いる場合、彼のコンセプトには素材が含まれていると考えられる。
32. 陳腐なアイディアを美しく仕上げることはできない。
33. 良いアイディアをだめな作品に仕上げるのは難しい。
34. 過剰な技術を身につけたアーティストの作品は、表層的なものになる。
35. 以上の文はアートについてのコメントであって、アートではない。

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