03-11-12

[翻訳]「ショウマン-アーティスト カスパー・ケーニッヒ インタビュー」ノエミ・スモリク

 
カスパー・ケーニッヒ(ルートヴィヒ美術館館長)の1994年のインタビューです。タイトルでもわかる通り、インタビュアーはキュレーターであるケーニッヒをアーティストとして(皮肉も含めて)見ているようです。インタビューの中でも触れられていますが、ケーニッヒはアート界でのキャリアをアメリカやカナダでスタートさせ、その後ドイツに戻りデュッセルドルフのアート・アカデミーでパブリック・アートの学科を設立。1988年にはフランクフルトのシュテーデルシューレ芸術大学の学長に就任し、同時に大学付属ギャラリーのポルティクスで数多くの展覧会を企画。2000年に現職に就き、2009年に2012年11月までの任期で契約を延長しています。上記のアカデミックな活動と平行して数多くの展覧会を企画したキュレーターでもあります。ヨーロッパのアートシーンにおけるケーニッヒの最大の功績は北米のコンセプチュアリズムを実践のレベルでヨーロッパに移入したことでしょう。とりわけその影響はフランクフルト近代美術館(MMK)のコレクションに見て取ることができます。
インタビュー中最も興味深いのは「ドクメンタ」展について話している箇所ではないでしょうか。同展が戦後ドイツの政治的状況(東西の分割)を背景に持つことはよく知られた事実ですが、ケーニッヒはその意義を「フランスやアメリカ(つまり戦勝国)のコスモポリタニズムの擬装」にあると指摘しています。それによって未来への希望を失ったドイツの若者たちに未来を示すことができるのだと言います。この発想は、政治的、社会的問題それ自体を熟議によって解決することよりも一つのビジョンを示すことによって共感の力を呼び覚ますという選択に基づいているのではないかと思います。

原文はThe show man – interview with artist Kasper Koenig – Interview

 
「カスパー・ケーニッヒ インタビュー」ノエミ・スモリク

昼夜を問わず、カスパー・ケーニッヒは動いている。展覧会オープニング、アート・フェア、シンポジウムのパネリスト。まるで、現代アートの世界で何かが起きるとき、そこには必ずケーニッヒの姿があるかのようだ。新しい潮流を探し、古い友人たちと握手を交わし、新世代のアーティストを表舞台に上げる。 国際的なアートシーンについて彼以上に 知り尽くしている人物はいないだろう。ケーニッヒは自らのキャリアを、大学での単位取得の代わりに、船の上の生活から始めた。それは彼の知的好奇心からの一時的な気晴らしだった。「ドクメンタ」展のアシスタントをつとめた後アメリカへ渡り、1968年にはファクトリーでウォーホルのストックホルム美術館での展覧会の準備に関わった。1970年代には数年間をカナダで過ごし、ハリファックスのノバスコシア美術デザイン大学で教鞭をとりつつ、いまではよく知られている、同大学の出版事業を立ち上げた。1978年にドイツに戻り、彼の名を国際的に知らしめることとなった大規模な展覧会企画に着手した。それらの中でもよく知られているのは、「ウェストクンスト(WESTKUNST)」展(ケルン/1981年)、「ここより(Von hier aus)」展(デュッセルドルフ/1984年)、「スカルプチュア・プロジェクト(Skulptur Projekte)」(ミュンスター/1987年)、「割れた鏡(Der Zerbrochene Spiegel)」展(ウィーン、ハンブルク/1993年)などである。ケーニッヒは現在、国立フランクフルト芸術大学シュテーデルシューレの学長と大学付属ギャラリー「ポルティクス(Portikus)」のディレクターを兼務している。

ノエミ・スモリク(以下NS):あなたは芸術大学の学長で、国際的に著名なキュレーターで、美術界の多くの権威ある委員会のメンバーですが、どうしたらこのような地位を手にできるのでしょうか?

カスパー・ケーニッヒ(以下KK):委員会に関しては、関心のあるものの場合にだけ引き受けるようにしています。戦略的な理由ではなく、あくまでも自分の興味に基づいてのことです。そういった自由があるのは、シュテーデルシューレでの仕事のおかげです。私はその職を7年間つとめており、その前はデュッセルドルフのアカデミーにいました。フランクフルトでの学長職は一時的なもので、能力と学生からの評価の組み合わせで選出されるのです。

NS:あなたがアートに関心を持ったきっかけは?

KK:それは環境の産物です。元々は建築やランドスケープ・アーキテクトに関心があったのですが、60年代の初めに現代美術への興味が芽生えたのです。当時その領域は信じがたいほどにオープンだったのです。

NS:あなたは伝統的な高等教育を受けていませんね。アメリカやカナダでの経験がその代わりになったのでしょうか?

KK:そうですね。私は同年代のドイツ人とは異なった履歴を持っています。他方で、私はアメリカで過ごす間に、アメリカのプラグマティズムを学んだのです。アメリカ人は常に目的達成型の考え方をしています。例えば、芸術的、詩的、ユートピア的目標とその具体的実現との間の矛盾といったような、とても複雑な主題について考える場合でもそうなのです。

NS:ドイツに戻ったあなたが最初に手がけたのは「ウェストクンスト」展でした。展覧会の意図はなんだったのでしょうか? なぜこのようなタイトル[西の芸術]を選び、そこにはどのような思惑があったのでしょうか。

KK:展覧会のタイトルは「Weltkunst(世界芸術)」の言葉遊びであり、現在では時代遅れとなった帝国主義思想の意図的な歪曲なのです。加えてその言葉は、1939年以来のヨーロッパの現実−東西の分裂−ということを想起させるという点において、歴史的であると同時に現代的で政治的な意味を持つのです。ですから、そのタイトルが示唆しているのは単なる「地方主義」ではありません。「ウェストクンスト」のねらいは芸術の革新であって、そこでは芸術作品こそが中心的役割を果たすのです。私たちの狙いは、あるクオリティや立場を可視化することでした。それは国際的なシーンに適応する展示であり、主張することを意図した展示でした。

NS:例えばどのような?

KK:私たちは、モダン・アートは消耗し尽くされたのではなく、むしろ第二段階に入ったということと、重要なアートは常に例外であり、規範にはならないということを信念として持っていました。展覧会は、芸術が生活様式に同化しうるものであるという幻想に対抗するものでした。

NS:あなたが次に手がけたのは1987年にミュンスターで開催されたサイト・スペシフィック彫刻の展覧会でしたが、それは芸術の大衆化の問題を的確に取り上げていましたね。

KK:クラウス・ブスマンのキュレーションによる1977年の「スカルプチュア」展は近代彫刻の歴史の概観としての展覧会でした。そこで私は現代部門を担当し、サイト・スペシフィック彫刻を展示しました。ブスマンと私の両方が感じたことですが、展覧会に参加したアメリカ人アーティストたちはヨーロッパのアーティストに比べてより無頓着に芸術の公共性の問題を取り扱っていました。10年後の「スカルプチュア・プロジェクト」は、この公共空間における芸術の役割という問題を追求しています。観客は今回の展示を10年前のものとの関係の中で見ることになります。そして彼らは、ミュンスターという町そのものを見るのです。その町は第二次大戦中に4回以上の破壊を経験し、戦後は住民たちに以前と同じ町に住んでいる感覚を与えるように復興されたのです。もちろんそれは過去の残響でしかありません。カリフォルニア、英国、スペインなど、別の国や地域から参加したアーティストたちが、この状況を取り上げて作品を制作したのです。それに私はミュンスター育ちですから、展覧会には私の個人的な側面もありましたね。

NS:ミュンスターの展覧会は次のような問いを提起していたように思われます:芸術はどの程度大衆を必要とするのか?

KK:本質的な次元で、アートがそのような意味で大衆を必要とするのかどうか、私には確信がありません。私はパブリック・アートの偉大なる擁護者ではありません。私は逆に、そのことに対して懐疑的なのです。展覧会に参加した多くのアーティストたちと同じく。しかし、数人のアーティストがその問題に取り組んだことは、非常に重要でした。そこには多くの論争がありました。例えば、当時ジェフ・クーンズの参加は一部のドイツ人作家にとって、理解しがたいものでした。

NS:あなたにとって「パブリック」が意味するものは何でしょうか?

KK:「パブリック」という概念は、「非公共」や「プライベート」といった対義語との対比においてのみ意味を持ちます。私はそれを、いくぶん19世紀的なアイディアだと思っています。TVのトーク番組などはパブリックとプライベートの境を曖昧にします。つまり、観衆への投映と擬似的な親密さの感覚を同時に実現するのです。

NS:公共空間との関係で言えば、あなたはよく、芸術の「闘技的潜在力」に触れています。その潜在力はどこにあるのでしょうか。

KK:それはまず、芸術の持つ、アイディアを複雑化する力に、そして、ありふれた政治的発言を混乱させる力に、存在します。芸術外の目的に芸術を従わせることはどのような場合においても問題です。それによって芸術はラディカルであることをやめ、アート・ワールドの現状を維持し続けるだけの存在に堕してしまうのです。

NS:にもかかわらず、あなたは芸術の政治的、社会的、経済的側面を常に強く意識していますね。

KK:ええ、そうです。しかしそれは芸術が社会を変えられるなどという幻想に基づく考えではありません。私は、芸術は常に再帰的なものだという考えに基づいて仕事をしています。芸術の再帰的特性がアートに社会性を付与するのです。

NS:その次にあなたは80年代の作品を取り上げた「ここより(von hier aus)」を手がけました。そこにはどのような判断基準があったのでしょうか。

KK:「ここより」展はアイロニカルな側面を持つ展覧会でした。私は西ドイツのアートを取り上げる展覧会を企画することになっていましたが、それは、契約によって、すみやかに開催されなければならなかったのです。しかし、その展覧会が提起しようとしていた問題に関して、私は疑問を抱いていました。私は徹底的に、国家主義的な視点を 避けようとしていました。その企画には巨大なスペース−10,000平方フィート以上の広さの産業遺構−が会場として用意されていましたので、私はその展覧会を、仮想の都市空間として構想しました。参加アーティストは、この「都市」の中に自分の作品のための家を構想し、展覧会で実現させたのです。ヘルマン・チェックが展示設計を担当しました。

西ドイツにはニューヨークやパリのような世界的大都市は存在せず、多くの脱中心的なハブが点在しているのです。私はミュンヘン、シュトゥットガルト、カールスルーエを訪れ、特定の様式や世代に属するアーティストたちの中から、それぞれ2、3人ずつ選出しました。私の意図は、価値判断を示すことにではなく、多様性を示すことにあったのです。そのため、数人の批評家からポスト・モダンの遊園地のようだ、などと揶揄されることになったのでしょうね。

NS:「ここより」展は、あなたがミュンスターで示したような社会的コンテキストへの直接的な関係も、美術史の概観のような意図もなかった。あなたは「自律的」な芸術を追求していた。それが意味するものは何でしょうか?

KK:キュレーター、つまり媒介者の立場から言えば、それはここのアーティストや作品を正当に評価するということです。それは象徴的な意味ではなく、具体的な意味でそうしなければならないのです、つまり展覧会の設計の問題として。例えば、展覧会の経費とその結果とは相関性がありますし、作品のリアリティはその背景にある思想と不可分であり、その知的および感情的次元は作品の物質的な具現化によって初めて開かれるのです。

NS:非常に多くのキュレーターは媒介者ではなく、自分たちをアーティストとみなしているようです。そんな彼らの企画する展覧会は一種の「総合芸術」作品の様相を見せています。

KK:私は自分がアーティストだとは考えていません。キュレーターの発言というのは比較的つまらないものです。それに彼らの信念を示すために、作品を使うことはできません。私は作品とプロフェッショナルな関係を結ぶようつとめてきました。作品とのプロフェッショナルな関係とは、作品についてより的確に言及するため、虚心に、関心を持って、常に新しい関係を結び続けることです。

NS:あなたの企画する展覧会はどのような機能を持つのでしょうか。そもそも芸術は何の役に立つのでしょうか?

KK:芸術の効能について推察するには、それを体験するほかありません。そしてその体験は社会的なものです。芸術作品の受容はかなりの程度社会状況に依存します。しかし、それは同時に個人的なものでもあります。いかなるときにも、いく通りもの方法で芸術を体験することが可能です。つまり、私たちは芸術の効果について語ることはできず、ただ個別の芸術作品や〔社会的〕コンテキストの効果についてのみ語るとこが可能なのです。私はアーティストの芸術的行為から、社会的文脈に貢献できる、使える道具を生み出す可能性に関心があるのです。

NS:先日あなたが企画した展覧会「割れた鏡(Der zerbrochene Spiegel)」は絵画作品だけを取り上げていましたね。それ以外の形式に興味を失ってしまったのでしょうか?

KK:そんなことはありませんよ。私はその展覧会を芸術の省察の機会だととらえました。「割れた鏡」はハンス・ウルリッヒ・オブリストと私が1992年に編集したあるアンソロジーから発展した展覧会です。そのアンソロジーでは、様々なアーティストやライターに「大衆の目(public view)」をテーマにした作品の制作を依頼しました。印刷物のページそれ自体が作品のメディウムであって、作品の複製ではないのです。「割れた鏡」展では、それが逆になりました。アンソロジーの制作を依頼したとき、絵画は時代遅れであると感じながら絵画作品を制作するアーティストがいたことは、きわめて印象深い事実でした。その事実によって、私は絵画作品を制作するアーティストだけを集めた展覧会の企画に導かれたのです。シュテーデルシューレでは、芸術の理論的問題に関心を抱きつつも、いまだ絵画の伝統にこだわり続ける学生によく出会います。この矛盾は非常に興味深い。「割れた鏡」展は断じて後退ではありません。それが投げかける問いは芸術の理論面においても実践面においても追求する価値のある問いなのです。

NS:現代は不安に覆われています。モダニズムのユートピア的計画は放棄されて久しいですし、我々の向かう先を見渡すことはできません。以前あなたは、芸術大学の教師はこのことを認める勇気を持たなければならないと話していました。「割れた鏡」はこの不安な時代に対する保守的な反応なのではありませんか?

KK:物事の行く末がわかっていた、などと述べるのは無思慮な態度です。しかし、かつて何があったのか、これからどうなるのか、と問うことは非常に重要です。美術史について深く考察しながら、それでも絵画の制作をやめない重要なアーティストが多く存在するという事実が、私には興味深いのです。

NS:あなたは次回の「ドクメンタ(Documenta)」のディレクター就任に関心を見せていました。そのためになにかアプローチをしましたか?

KK:その職を得るための特別な活動はしていませんが、もちろん関心を持っていますよ。私はヨーロッパ、とりわけドイツの、すっかり変わってしまった社会的、政治的、そして経済的状況について問うてきました。「ドクメンタ」はそれらの問題について議論を提起するのにうってつけの場所なのですから。なぜならその国際展はナチの独裁以降の戦後ドイツにおいてきわめて重要な位置を占めているのです。

NS:確かに「ドクメンタ」は敗戦後のドイツの政治的状況から生まれました。ならば、人はこう問うべきです、それはまだ意味を持つのか、と。

KK:そう、それは戦後の産物です。もともとのアイディアは、破壊されてしまった国に生きる若者たちに国際的な連帯の感覚を持たせるため、ドイツ国内に擬似的なコスモポリタンを作るというものでした。「ドクメンタ」展の支援者たちはホロコーストの罪を若者たちに負わせ続けることは馬鹿げたことだと考えていたのです。彼らに開放感と可能性を与えることこそが重要なのだと。時が過ぎ、「ドクメンタ」は企業のスポンサーシップとメディアの騒音を伴って巨大化しました。だから私は、とても身近にあった抑圧的ユートピア(カッセルは旧東ドイツとの国境に非常に近いのです)の失敗の歴史を振り返りつつ、 来るべき未来 を芸術によって示すために、大きくなりすぎた「ドクメンタ」をスケールダウンさせようと考えたのです。その規模を少し縮小して、「ドクメンタ」からイベント性を取り去るつもりでした。そうすることで、最終的にマイノリティ−例えばアーティストたち−の救いになるような作品を取り上げることができたでしょう。もちろん、すべての人に対してオープンにすることなどできませんが。

NS:あなたは「ドクメンタ」に今でも意義があることを確信しているようですが。

KK:それは正しい問いかけではありませんね。「ドクメンタ」は、その内容を再検証した上で、新しく定義され直して初めて意義を持つのです。

NS:「ドクメンタ」は他の数多くの大規模国際展のモデルでもあるわけです。しかし、そのディレクターはたった一人で、大きな権力を手にすることになります。あなたはそのような権力の集中に関して倫理的な問題を指摘していました。

KK:キュレーターとして作品を評価する際、私は、アーティストが妥協をしていないかどうか、作品に対して責任を負っているかどうかに注目します。そのやり方は完全に正当なものです。私は、委員会形式で芸術についての正当な判断を 下すことができるとは思いません。判断は明確ではっきりとしたものでなければなりません。

NS:あなた自身、ドイツ国内のみならず世界的に大きな影響力を持っています。あなたは権力者であると言って良いでしょう。そのことはあなたにとって悩みの種になっていませんか?

KK:いいえ。私は自分の仕事に対してシニカルになることはありません。シニシズムに陥りそうになったら別のことに取り組むのです。ナイーブに聞こえるかもしれませんが、それが私の考え方です。

NS:芸術における転換点はどうやって見極めるのでしょうか。

KK:それには、それに気づかせてくれる良い友人を持つことです。そして言うまでもなく、アーティスト、特に若いアーティストと接し続けることです。そういうつながりが、私をリアリティにつなぎ止めてくれるのです。

NS:あなたは日頃からアーティストたちへの評価を下し続けていますね。自らの判断に疑いを持ったことはありませんか?

KK:私の自信は好奇心に基づいています。そして、ディーター・ロットからトニー・アウスラーまでの59回にわたる、1987年以来のポルティクスでの私の企画が最良の答えになるでしょう。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

03-04-12

マイク・ケリー インタビュー1/4

“Mike Kelley / Interview 1 of 4″に日本語字幕を付けました。

翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

The Thirteen Seasons (Heavy on the Winter) #1: The Birth of the New Year, 1994
The Thirteen Seasons (Heavy on the Winter) #2: Fecundity, 1994
The Thirteen Seasons (Heavy on the Winter) #4: The Dawning of Sexuality, 1994
all: acrylic on wood panel, 62.5 x 40 in.

その他のThe Thirteen Seasonsの画像はこちら

[字幕]
私は自分自身のトラウマの出発点になった、
学生時代のトレーニングに立ち返ろうと考えた。

それて学部生時代のドローイングを引っ張りだしてみた。

その頃のドローイングは、ハンス・ホフマンの
構図理論の曲解に基づいて描かれていた。

私はその描き方を、再び学び直した。

最初の絵画作品のシリーズは、この退行的なやり方で
制作された。

私はそのシリーズを、
「十三季(The Thirteen Seasons)」と名付けた。

シリーズの作品は全部、長方形を崩して楕円形にした。

楕円形には終わりがないからね。

つまりその絵画は永遠の、
永遠に繰り返す、不正使用なんだ。

このトラウマ文学のようなものの中で、
思い出すことのできない細かい記憶は「失われた時間」と呼ばれ、
そしてそれを回復するんだ。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

 
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この blog は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。