05-31-12

ミート・ジ・アーティスト:トーマス・デマンド「大統領の座」

“Meet the artist: Thomas Demand″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

作品について紹介しているHPへのリンク
National Gallery of Art Acquires Presidency I–V Photographs by Thomas Demand
Thomas Demand, Presidency

*こちらにtranscriptionがあります。字幕は聞き取りのみで作ったのですが、こちらを読むと字幕には若干誤訳や単語レベルの抜けがありますね。。

〔字幕〕
トーマス・デマンドです。
五点の写真で構成される展覧会を開催します。
厚紙で実物大の模型を制作し、それを撮影した作品です。
作品の制作には二ヶ月かかりました。

それは私たちがよく知っている部屋の模型です。
ホワイトハウスの大統領執務室の模型です。
しかし、実の所その模型は実際のホワイトハウスや
執務室の再現ではありません。
それは彫刻作品なのです。
映画や報道などのメディア上に繰り返し
映し出される、極めてパワフルな場所についての
私の知識や解釈に基づいて作られたものなのです。

すべて厚紙で出来ています。
カーペットは細かい紙片で作っています。

マダム・タッソー館とは全く違います。
この模型は細部の再現を放棄しています。
例えば星条旗には星がありませんし、
書類には何も書かれていません。
細部を作りこむのは簡単なことですが。
私は自分が見出したものを、彫刻へと
翻訳したいのです。
その対象そのものが持つ美しさとともに。

基本的に私が意図しているのは、
鑑賞者がその場所を特定のどこかであると
認識できるのと同時に、
今まで見たこともない場所のように
感じる体験を生み出すことです。
私は人々の無意識にふいに入り込む
ようなイメージを作ろうとしています。
イメージのライブラリーのようなものを。
金色のカーテンの光沢感や
旗竿の先端の鷲の飾りなどの細部によって
満たされるイメージを。

リアリティの細部に入り込み過ぎた時
には立ち止まるようにしています。
私は対象がどのようであるかには全く
関心がないのです。
私の関心は、それがどのように認識されて
いるか、という点にあるのです。

大統領によって執務室のインテリア
デザイナーも異なります。
それは普通ファーストレディの役割
なのです。

ブッシュ・シニアの場合は全く違う
しつらえになっていました。
現在のインテリアよりもう少し趣味が
良かったと思います。
とはいえ、クリントンの趣味がひどかった
というわけではありません。
彼の時代のインテリアは仰々しく、
権力の表象に満ちています。
しかし彼が使っていたダークカラーの
絨毯はとても良いと思いました。
そしてカーテンにはブッシュ・ジュニア
のものを使いました。
さらにレーガン大統領が好んだポケット・
ツリーも加えました。
私が作ったのは複数の執務室の
ハイブリッドであって、
特定の大統領の執務室の再現では
ないのです。

ここには暖炉を写した写真があります。
暖炉はとても謎めいています。
ブッシュ・ジュニアはローマ教皇と一緒に、
暖炉の前に座って歓談しました。

部屋の主の椅子の下からあおった
写真を撮りました。
これは権力について示唆した写真であり、
現実にこの部屋を訪れた人には絶対に
撮ることのできないイメージです。

私は現実とイメージの、どちら
からも等しく影響を受けました。
それは丁度、雑誌で目にしたものを
魅力的に感じたり、
TVに出ている人を、良い人だと思う
といったような意味においてです。
私たちは生活の中での様々な決断を
イメージの影響のもとに行います。
何がほしいのか、私たちは誰で、どこに
いるのか、など。
私はアーティストとして、このような
イメージの影響力に大変関心があります。
私は常にイメージを用いて制作している
のですから。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-21-12

デビッド・カープ(Tumblr創業者)「Tumblrについて」

“Tumblr’s David Karp Models For UNIQLO″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

〔字幕〕
デビッド・カープ:僕はデビッド・カープ。タンブラーの創業者です。
タンブラーは自己表現のための理想的な
プラットフォームを目指しています。
多くの人が自分の気になっている物事を
共有できるしくみです。
今のWEBサービスには、個人の創造的活動のために設計された
ものはほとんどない。
そしてサービス上でのアイデンティティ
に誇りを持てるようなサービスも少ない。
フェイスブックでは簡単にアイデンティティを
簡単に作ることができるけど、
それは身分証明書のようなものでしかない。
タンブラーはオンラインでクリエイティブに
活動するための、とてもユニークなサービスだ。
誇りを持ってみんなに見せたいと思う
ものを共有できる。
人が君の名前をググったり、君の名刺や
履歴書に書かれているアドレスを入力したくなるようなものを
共有できるんだ。
人が自分の気になるものをもっと率直に
共有できるようになれば、
世界はもっと良くなるだろう。
何を共有しどのように見せるかの決定権
をユーザーに委ねることで、
美的で創造的な感性を持った人々の
コミュニティを呼び込むことができる。
そうしたコミュニティが、多くの人々を刺激して、
たくさんの作品がタンブラーで共有されていくんだ。

五〇代、六〇代になって写真の趣味に
目覚めた人たちは、
身近に趣味を共有できる仲間を見つける
ことが難しいけど、
タンブラーなら、彼らの活動を受け入れ
る創造的なコミュニティが見つかる。
そして刺激を受けてそこに参加したく
なるだろうし、
自分たちが参加するためのいいツール
を見つけたと感じるだろう。
そしてコメントを書いたり、写真を
共有したりするようになる。
そういうサービスならテンション上がるよね。

一番嬉しいのは、僕らに最も縁遠い分野
のコミュニティを見つけた時だね。
ファッション、音楽、映画産業の
コミュニティに集まる人々は、
僕らが思いもよらなかったような仕方で
タンブラーを使っているんだ。

理解するのに3年かかったことがある。
二、三ヶ月毎に必ずのように、
世界の終わりかと思うような大問題に直面する。
その出来事は君の胃をキリキリと締め上げ、
もうだめだ、自分はもうおしまいだ、
という気持ちにさせるだろう。
以前は時々起きるそうした事態に
慣れていなかったけど、
問題に対処して、難局を乗り切っていくうちに、
再び物事がうまく運び始め、自分たちの
仕事に熱中することができるんだ。

早い時期に良き相談者を見つけること。
そして彼らの話を真剣に聞くこと。
たとえ彼らの言うことが、正しいこと
だと確信できなくてもだ。
彼らとの対話を続けるんだ。
聞いた話は何年も後になって役立つこともある。
今になって自分のためになったと思えるのは、
これは彼らが前に言っていたことと同じ事だと分かって、
問題に落ち着いて対処できることだ。
僕は以前より賢くなったな、とか、
これは違うな、とか。
最終的にうまくやることができる。
そうだね、OKって感じに。

人の話を全部聞き入れる必要はないけど、
豊かな経験を持つ人達が身近にいるということは、
大きな財産になるよ。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-21-12

芸術係数読書会:クレイグ・オーウェンス「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」を読む

Craig Owensの「From Work to Frame, or Is There Life After “The Death of the Author”?」の読書会のお知らせです。

「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」は、1960年代後半から70年代にかけて制作され、発表された芸術作品(主にマルセル・ブロータース、ダニエル・ビュレンヌ、マイケル・アッシャー、ハンス・ハーケlルイーズ・ローラーなど)や論考(マーサ・ロスラー、マリー・ケリー、アラン・セクラなど)に見られるある重要な変化に基づいて、80年代以降に現れたアプロプリエーショニズムとして知られる一群の作家たちの仕事についての考察です。

その変化はタイトルにもあるように、ロラン・バルトが1968年に発表した「作者の死」で言及した、作者と作品の意味や価値との関係の変化、作品の意味の生産における作者の地位の相対的な低下を指しています。そうした変化は80年代後半から90年代のシミュレーショニズムや関係性の美学を経て現在のアートシーンにも通じる変化です。

読書会は、3回に分けて進めます。テキスト中に多数のアーティストが言及されているので、初回はアーティストの紹介を中心に作品写真のスライドをお見せしながら進めたいと思います。

〔冒頭部分の訳を公開します:PDF形式

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

<参考図書>
ロラン・バルト「作者の死」(『物語の構造分析』所収)

<関心があれば>
クレイグ・オーウェンス「他者の言説」(『反美学』所収)
ミシェル・フーコー「作者とは何か?」(フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯 (ちくま学芸文庫)所収 )

===
日時:2012年6月30日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


大きな地図で見る

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-21-12

芸術係数読書会:ボリス・グロイス「アートとお金」を読む

Boris Groysの「Art and Money」の読書会のお知らせです。

「Art and Money」は、アートと金の関係を展覧会における金(支援)と作品の関係について考察します。
伝統的なアート場合は展覧会に出品されずとも作品は存在するのに対し、現代美術に特徴的なインスタレーション形式の作品は、展覧会に出品し、適切な支援が得られなければ、作品として存在することもできないということをグロイスは強調します。そしてそのような状況を“展示=制作”として定式化し、その端緒はデュシャンにあると指摘します。
グロイスはここからスタートして、現代アート(とりわけインスタレーション作品)を支える存在とは何かについて、とくに現代のネットを中心とするイメージ生産/流通技術との関わりから、考察を進めます。

一般にわかりにくいとされるインスタレーション作品の社会的な存在意義について、ベンヤミンやグリーンバーグの言説を鮮やかに読み換えつつ明快に説いていて、広くアートに関心のある方には一読の価値がある論考だと思います。関係性の美学に興味がある方にもおすすめです。

〔冒頭部分の訳を公開します:PDF形式

読書会は2回に分けて行います。参加者と一緒に英文を読み進めながら、内容の解説をしていきます。

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

テキストはこちらから入手できます。

<参考図書>
クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(『グリーンバーグ批評選集』所収)

<関心があれば>
ボリス・グロイス「全体芸術様式スターリン」
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」
Clement Greenberg, The Plight of Culture, in Art and Culture

===
日時:2012年6月16日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分

大きな地図で見る

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-13-12

マーシャル・マクルーハン「グローバル・ヴィレッジ(地球村)について」

“Marshall McLuhan in Conversation with Mike McManus – Friday May″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

〔字幕〕
マイク・マクマナス:一九五〇年代初頭、世界はグローバル・ヴィレッジへ
向かいつつある、と予言していましたね。
私たちは地球規模で物事を考えるようになるとも。
今現在、予言は成就しつつあるのでしょうか?

マーシャル・マクルーハン:我々は逆戻りしています。
部族的で、集合的、個人の意識を持たない
古代人の二分心的な意識へ戻っています。

マクマナス:しかし、この部族的世界は友好的でない
ように感じるのですが。

マクルーハン:そのとおりですよ。
部族的世界の人間は、互いに殺しあうのです。
部族的社会は、危険の絶えない社会です。

マクマナス:我々がグローバルで、部族的になれば、
我々は…

マクルーハン:我々がもっと緊密になれば、互いに
もっと好意的になるとでも?

マクマナス:ええ。

マクルーハン:そんなことはありえませんね。
人間同士近づけば近づくほど不寛容に
なるのです。

マクマナス:それが人間の本質なのでしょうか?

マクルーハン:狭い環境では、人の寛容度に大きな
負荷がかけられるのです。
村落共同体の人々は、さほど互いを
愛していないのです。
グローバル・ヴィレッジとは、脅迫的な
インターフェイスであり、
非常に神経をすり減らす環境なのです。

マクマナス:ケベック州の分離主義思想には、その
ような考え方との共通点が見えますか?

マクルーハン:ケベック州民は国内の英語圏コミュニティ
を不快に感じているでしょうし、
それは百年前にアメリカ南部が北部に
感じていたのと同様の感情でしょう。

マクマナス:それはスペースの必要性ということ…

マクルーハン:いいえ、できるだけ摩擦の起きないような
出会いが必要なのです。
車輪とアクセルの関係にもう少し隙間が必要なのです。
車輪とアクセルが直結しすぎると、遊びが
なくなってしまうのです。
だから人々の間にも潤滑油というか、
少々距離が必要なのです。

マクマナス:距離を取る傾向というのは、世界中に
見られるものでしょうか?

マクルーハン:もちろんそうです。分離主義の台頭は
世界中で見ることができます。
世界中の国々で、リージョナリズムや
ナショナリズムを掲げる集団が活動しています。
ベルギーにおいてすら分離主義の大きな
動きがあります。

マクマナス:しかしケベック州民は、分離主義を
アイデンティティの追求と捉えています。

マクルーハン:あらゆる暴力はアイデンティティを
追求する行為です。
フロンティアを生き抜くとき、あなたに
アイデンティティはありません。
あなたは何者でもないのです。
だからあなたはタフになります。
自分が特別な存在であると、力で証明する
必要があるのです。
だから暴力的になるのです。

アイデンティティには、常に暴力が伴うのです。
一般市民にとって、暴力は自分たちの
アイデンティティを奪うものです。
暴力は、彼らのアイデンティティを
脅かすものでしかありません。
テロリストやハイジャック犯などは、
負のアイデンティティを持ちます。
彼らは何とかして注目されることを、
固く誓った人々なのです。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-08-12

ヴィム・ヴェンダース「“Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち”の始まりについて」

“Wim Wenders speaks about how PINA originated″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-08-12

Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち―ヴィム・ヴェンダース インタビュー(2012)HD

“Pina – Wim Wenders Interview (2012) HD″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-05-12

〔ノート〕『明るい部屋』ロラン・バルト

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

目次


1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」―その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意に捉えること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」―部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場
24 前言取り消し


25 《ある晩…》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 仔細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い慣らされた「写真」

“ずいぶん昔のことになるが、ある日、私は、ナポレオンの末弟ジェロームの写真(1852年撮影)をたまたま見る機会に恵まれた。その時私は、ある驚きを感じてこう思った。《私が今見ているのは、ナポレオン皇帝を眺めたその眼である》と。”(p.7)

“「写真」が数限りなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は…機械的に繰り返す。”(p.9)

“「写真」は絶対的な「個」であり、輝きがなく、いささかばかばかしい、この上もなく「偶発的なもの」であり、ただ単なる「これ」である…要するにそれは、テュケー(運命)の、機会の、遭遇の、現実界の飽くことのない表現である。”(p.9)*英語版を参照して訳に変更を加えています。

“私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。…私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。”(p.15)

“技術的には、「写真」は二つのまったく異なった手順が交わるところにある。一つは化学的性質にもとづくもので、…もう一つは、物理的性質にもとづくもの…「観客」にとっては、「写真」は本質的に、いわば対象の科学的啓示=現像(レヴェラシオン)から生ずる…「撮影者」にとっては、「写真」は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)の鍵穴によって切り取られた視像と密接に結びついている…”(p.17)

“「撮影者」のこうした感動(「写真」のこうした本質)を私は決して知らないので、それについて語ることは不可能だった。…私の手の届く範囲には、ただ二つの経験しかなかった。すなわち、眺められる主体としての経験と、眺める主体としての経験である。”(pp.17-18)

“「写真」がもたらした混乱は、結局のところ、所有権の混乱である。法律はそれなりにこのことを告げている。写真は誰のものなのか?被写体…のものなのか?写真家のものなのか?風景そのものも、その土地の所有者から…の借用物にほかならないのではないか?…無数の訴訟が示しているように見えるのは、所有こそ存在の基盤であるとする社会の、所有権に関するためらいなのである。”(p.22)

“「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。…カメラを向けられると、私は同時に4人の人間になる。すなわち、私が自分はそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間…私は自分自身を模倣してやまないのである。…私は…自分が客体になりつつあることを感じている主体である。”(p.23)

“私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。”(p.25)

“私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。”(p.34)

“ストゥディウム(一般的関心)…は、気楽な欲望と、種種雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い…の問題である。…ストゥディウムは…人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく…無責任な関心である。”(pp.40-41)

“ストゥディウムとは、一種の教育(知と礼儀)なのである。”(p.41)

“「写真」が絵画から生まれたというのは、技術的には正しいが、しかしそれも部分的に正しいというだけである。…画家たちが利用したカメラ・オブスクラは、「写真」を生み出す要因の一つにすぎない…本質的に重要なのは、おそらく化学的発見が行われたということである。”(p.44)

“「写真」が芸術に近づくのは、…「演劇」を通してなのである。…ダゲールは、…シャトー広場(レピュブリック街)で、…パノラマ劇場〔ジオラマ館〕を開いていた。…カメラ・オブスクラは、透視画と「写真」と「ジオラマ」を3つとも生み出したわけであるが、この3つはいずれも舞台芸術なのである。…「写真」は、その中でもっとも「演劇」に近い、と私には思われるが、それは両者が「死」という特異な仲立ちによって結ばれているからである…。演劇と「死者信仰」との原初的なつながりはよく知られている。最初の演技者たちは、「死者」の役割を演ずるにあたって、身を共同体から切り離した。顔に化粧をほどこすのは、身を生きながら死んだ肉体として示すためであった。”(pp.44-45)

“写真はいずれも偶発的なものである(そしてまさにそのことによって、意味の埒外にある)から、「写真」は仮面を着けないかぎり、意味すること(一般的なものを狙うこと)ができない。”(p.49)

“プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。”(p.58)

“ジェームズ・ヴァン・ダー・ジーによって1926年に撮影されたアメリカの黒人一家…そのストゥディウムは明瞭である。…対面を保つこと、家族主義、順応主義、晴れ着を着てかしこまっていること、白人の持物で身を飾るための社会的上昇の努力…である。その光景は私の関心を引く。しかし私を《突き刺し》はしない。”(p.58)

“要するに、ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない。”(p.64)

“「歴史」とはヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない―そしてそれを見るためにはその外に出ていなければならない。”(p.78)

“絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。”(pp.93-94)

“「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。うなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》〔動詞intersum「〜の間にある、相異する、居合わせる」の完了過去〕ということ”(p.94)

“写真を発明したのは…画家ではなく、化学者たちである。というのも、ある科学的事由(銀ハロゲン化合物の感光性の発見)によって、…対象から発した光を直接とらえ固定することが可能になり、そのときはじめて「写真」のノエマ《それはかつてあった》が存在しえたからである。写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。”(p.99)

“写真のまなざしにはなにか逆説的なところがあるが、時にはそれが実人生でも見られることがある。先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の視線はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を見つめているという確信をもったが、しかし彼が私を見ているかどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。見つめていながら、どうして見ないでいられるのか?「写真」は注意を知覚から切り離し、…ただ注意を向けるかのようである。…ノエマのないノエシス、思考内容のない思考作用、標的のない照準である。”(p.137)

             このエントリーをはてなブックマークに追加

05-01-12

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト インタビュー part 2

“tank.tv Interviews Hans Ulrich Obrist (Part 2)″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

「ハンス・ウルリッヒ・オブリスト インタビュー part 1」はこちら

動画中で言及されている「プロジェクト」は、インタビュー動画を制作したtank.tvのために編集されたDVD「フレッシュ・ムーブス:イギリスの新しい映像表現」のこと。
また、字幕ではMondialitéを「世界性」と訳しています。

[字幕]
質問:作品を見せる際の様々な文脈について
考えをお聞かせください

オブリスト:作品の見せ方には多くの可能性があります。
この可能性は、言うなれば、展覧会の現場で探求されるのです。
マルチスクリーンの映像インスタレーション作品、
例えば、ダグ・エイケンの作品や
ノー・ゴースト・ジャスト・ア・シェルの見せ方などは、
それぞれの作品に固有の空間的な条件があります。
それはカーペットやスクリーンの配置を含む、
インスタレーションの手法を意味します。

しかし、空間的に厳密に作品を定義
するアーティスが、
より空間的な制約がゆるい作品を
作ることもあるのです。
より偏在的で、さまざまな状況で
見せることのできる作品を。

最初の質問の答は、見せ方の問題
だということ、そして
ある種の作品は、厳格な空間設計
に基づいて見せる必要があり、
アーティストにとってそれが重要で
あるけれど、
しかし同じアーティストでも別の
作品に関しては、
アート・ワールドを超える偏在性を
作品に求めることもある。
美術館やギャラリーだけでなく、
もっと日常的な場所、例えばDVDストアとか、
あるいはより幅広い流通が可能な
状況で見せたいと考える。
だからこの場で、どのアーティスト
はこうで、と言うことはできない。
それは現場での交渉で決まるのです。

多くのアーティストは色々な
可能性を試したいものです。
様々な考えが混ざり合った可能性を。

質問:イメージはどう動くのか?

オブリスト:アーティストが「動き」を形にする
道筋には、高速レーンと低速レーンがあると
考えます。
私たちの世界はグローバル化による
同質化の圧力にさらされていますが、
それはアート界にも影響しています。
私が考えているのは、同質化への
抵抗なのです。
それは単に空間的なものではなく、
時間的なものでもあります。
時間の同質化は非常に大きな問題で、
それに抵抗しなければなりません。
ですから我々はエドゥアール・グリッサンから
大いに学ぶべきです。
彼の「世界性」という概念は、
グローバル化の同質圧力への抵抗で
あるとともに、
潜在的な、グローバルな対話の可能性を
閉ざさないことなのです。
だから彼は「世界性」を、世界的な
対話の可能性として、
差異を維持する力として定義します。
それは差異を生み出すグローバルな
対話を否定しません。
私はこのプロジェクトが、
空間と時間の同質化に抵抗する
ことによって、
グリッサンの「世界性」の実現に
寄与することを願っています。

             このエントリーをはてなブックマークに追加

 
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この blog は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。