06-29-12

デミアン・ハーストへの10の質問

“10 Questions For Damien Hirst″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

〔字幕〕
ベリンダ・ロスコム:こんにちは、ベリンダ・ロスコムです。
タイム誌の編集者です。

デミアン・ハースト氏は、世界で最も成功し、著名で、そして裕福な
アーティストの一人です。
ハースト氏は、世界各地に点在する十一箇所のガゴシアン・ギャラリーを全て使い、
彼のスポットペインティングだけの展覧会を開催中です。
今日はその展覧会に関連した十の質問に答えていただこうと思います。

ハーストさん、ようこそ。

デミアン・ハースト:どうも。

ロスコム:世界各地の十一箇所のギャラリーで、
あなたのスポットペインティングだけが展示されています。
なぜこのような展覧会を思いついたのですか?

ハースト:ラリー(・ガゴシアン)のギャラリーには、
各地のギャラリーで展示中の、それぞれのアーティストの名前が壁に
プリントされているんだ。
それを見たとき考えた、世界中のアーティストの中で俺だけだな、
全部のギャラリーを一人の作品で埋められるのは、とね。
要するに誇大妄想狂の発想だよ。

ロスコム:あなた自身が描いたスポットペインティング
は五枚だけだったかしら?

ハースト:この展覧会に出品されているものの中では
だいたい二十五点くらいだ。

ロスコム:あら、二十五枚も!
作品を外注するときにはどんな風にやるの?
作品制作の外部委託は他の人もやってるけど、
あなたとは違うやり方よね。
例えばアメリカの企業がやるように、
スリランカの人に技術訓練したりするの?

ハースト:アーティストなら訓練さえすれば誰でも
作品を作れると考えるべきだ。
作品制作には、多くの人々の才能が必要だからだ。
写真を写実的に描いた絵画作品の場合も同様だ。
俺は自分の能力だけですごい絵が描ける奴を雇わない。
自分の才能だけを頼り、誰の協力も必要とせずに描いてしまう。
だが、俺がやってることは訓練次第で誰でも
できるんだ、と考える方がいいんだよ。

ロスコム:つまりあなたが雇うのは能なしということなのかしら?

ハースト:絵筆を握ればいいんだ。基本的な技術さえ
あれば、それで十分ということだよ。

ロスコム:さっき警備の人から聞かれたのよ、
それぞれの丸は何を意味しているのかって。
一緒に考えてあげましょうか?

ハースト:そうだな…赤は愛を、白は純粋さを、黒は死を、
青は憂鬱を、緑は嫉妬を意味しているよ。

ロスコム:真面目に言ってるの?それともふざけてるのかしら?

ハースト:そもそもアートは…
俺が作っている作品は、それが人にとってどんな意味を持つか、
十分に説明できるようなものじゃないんだ。
おそらく人間は混乱を、あるいは世界を秩序
付けようと欲する生き物なんだろう。
だから我々はグリッドを好むんだろう。
だけど人間がグリッドに収めようとするものが
そこに収まることはめったにないんだ。
人間っていうのはそういう事を好んでやろうとするんだよ。

ロスコム:同感だわ。
スポットペインティングを除くあなたの作品の多くは、
腐敗、死、堕落といったテーマを扱っていますね。
それはどういう理由からなのかしら?

ハースト:俺はいつも出来事の両面を取り上げる。
バタフライ・ペインティングを作ったとき、
感傷的に受け止められすぎないよう心がけた。
だから、フライ(蝿)・ペインティングを制作した。
愛は素晴らしいものだが、こうしている間にも、アフリカでは多くの
子供たちが殺されている。それが世界だろ?
圧倒的な矛盾であふれているんだ。
俺はそんな世界を反映する作品を作りたいのさ。

ロスコム:あなたは、世間から忘れられ、無視されるのが
一番恐ろしいと言っていたわね、そんなことありそうもないけど…。
実際あなたの作品は大きな議論を呼ぶことが多いわね。
例えばあなたの頭蓋骨の彫刻…神の愛?だったかしら。

ハースト:そうだ。

ロスコム:頭蓋骨にプラチナとダイアモンドが
散りばめられてるのよね。
そういう作品にはある意味芝居がかった
ところがあるように感じるの。
それで何人かから、そういうやり方が、ある種の
TV番組を連想させると聞かされたの。
そうね、例えばピンプ・マイ・ライドや
ケーキ番長みたいな番組、英国にもあるわよね

ハースト:俺はピンプ・マイ・ライド好きだけどな。

ロスコム:そういう番組では色々な出演者たちが、
驚くような創造性を見せてくれる。
彼らとあなたの創作との間に区別はあるのかしら?

ハースト:なんであれ、超良くできたものがアートだ。
俺は神を信じない。俺にとってはアートが宗教なんだ。
俺はいつも1+1が3になるような数学的奇跡について考えてる。
ダイアモンド・スカルをパクる奴もいるだろうし、
1+1を2にする奴もいるだろうが、それじゃ足りないんだ。
1+1が1のままだったら未来はない。スタジオに引きこもるしかない。
ダイアモンド・スカルで言えば…アーティストは、
身の回りにあるものごとから発想する。
ダイアモンド・スカルはブームになっていて、
大勢が大枚はたいて買っていってるよ。
そんな大金ははガキの頃の俺には見果てぬ夢だった。
今の状況はイカれてるよ。
俺にはダイアモンド・スカルを作ることしか思いつかなかった。
そいつは俺をとんでもなく怯えさせるんだ。
俺は囚われの王様の気分だった。
作品を作るのに百万ポンド以上使うんだ。
言いたくはないが、大金を手にすると創造することが困難になる。

ロスコム:それについて聞きたかったのよ。

ハースト:おかしなもんさ。
アーティストはヴァン・ゴッホのように
貧しくあれ、っていう考えは気に入らない。
金は何かを可能にするための鍵のようなもので、
そのために制作するようなものじゃない。
金は愛と同じくらい面倒なものだと思ってる。

ロスコム:それが控えめに見ても三百万ドルの値打ちの
ある男性からの言葉かしら?

ハースト:どうかな。

ロスコム:三百万ポンドかしら…
自分ではわからないものかしら?

ハースト:価値は変わるからな。
まあいいさ。
会計士と俺の子供のことについて最近話したんだ。
彼は「子供のことは心配いらないな」と言った。
貧しい環境で生まれたら心配事は尽きないだろう。
どうにもできないことだよ。

ロスコム:私にも一つ包んでくださらない?

ハースト:三百万ドルだぜ。

ロスコム:ポンドじゃないの?

ハースト:ポンドかもな。ポンド、ドルどっちかな。
ポンドとドルを入れ替えるのもいいな。

ロスコム:そうね。

ハースト:今じゃどっちも変わらんがね。
大特売会で買えるかどうかだな、だろ?

ロスコム:ありがとうございました、ハーストさん

ハースト:どうも。

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06-20-12

マイク・ケリー「デイ・イズ・ダン」

“Mike Kelley: “Day Is Done” | Art21 “Exclusive”″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

〔字幕〕
ポップカルチャーは、目に見えない。
誰もそれを意識しない。
とはいえ、自分はその文化の中で生活してるし、
多くの人々が口にするのはポップ・カルチャーのことだ。

自分はポップ・カルチャーに関心があるが、
それを賞賛しているわけじゃない。
たいていのポップ・カルチャーは嫌いなんだ。
つまり、私たちは支配的な文化の影響を
受けながら制作するほかないから、それを使って遊ぶのさ。
分解して再構成するんだ。

ここに並んでいるのは「デイ・イズ・ダン」の
それぞれの映像作品の元になった写真だ。
この、ヴィジュアルな脚本とも言える写真は、
グループ分けされていて、それぞれが
各映像の絵コンテのようなものなんだ。
写真は全部、ファウンド・イメージだ。

この箱は作品構成の見取り図なんだ。
このフォルダの中身は全身にクリームパイ
を塗りたくった連中の写真だ。
こっちは猿ぐつわをかまされ、縛られた
やつらの写真をまとめてる。
これは兵士の扮装をした男が、
いじめられっ子に扮した男をナイフで脅かしている写真だ。
この辺はいじめの場面の写真だ。
上流階級役が下層階級役を侮辱している。
これは豚囲いの中に入れられた連中の写真。
贈り物のラッピングに見立てた衣装を着ている人々の写真。
「スレイヴ・デイ」、これは私の大好きなやつだ。
強制的に屈辱的な衣装を着せられて、
競売台に乗せられて競りにかけられる。

このプロジェクトは、アメリカ民衆文化の
人類学的調査のようなものだ。
映像化されているのは日常的な行為じゃない。
それらはとても儀式化されているんだ。
その意味で、それらの行為は、作品制作に似ているんだ。
私は、アートは文化を儀式化する実践だと思っている。
それは規範的な振る舞いの外部にある。
例えばここにキャンドル・セレモニーを
撮影した2枚の写真がある。
一枚はカトリックの儀式の様子で、
ぽっちゃりした女の子が写ってる。
もう一枚に写っているのは知的で奔放な印象の女性だ。
彼女はビートニクっぽく見える。
私は、この厳粛な雰囲気の儀式を
ぶち壊す何かを付け加えようと思った。
それでナチスの軍服を着た二人組の男を登場させたんだ。
彼らはラップで彼女が太りすぎであることについて歌う。
ラップではよく取り上げられるモチーフだからね。
取り上げる題材に適した音楽ジャンルを選んだってわけさ。
連中は「デカ尻のデブ女」とかなんとか歌うんだ。分かるだろ?

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06-18-12

芸術係数読書会:ボリス・グロイス「アートとお金」を読む 第2回

Boris Groysの「Art and Money」の読書会のお知らせです。

「Art and Money」は、アートと金の関係を展覧会における金(支援)と作品の関係について考察します。
伝統的なアート場合は展覧会に出品されずとも作品は存在するのに対し、現代美術に特徴的なインスタレーション形式の作品は、展覧会に出品し、適切な支援が得られなければ、作品として存在することもできないということをグロイスは強調します。そしてそのような状況を“展示=制作”として定式化し、その端緒はデュシャンにあると指摘します。
グロイスはここからスタートして、現代アート(とりわけインスタレーション作品)を支える存在とは何かについて、とくに現代のネットを中心とするイメージ生産/流通技術との関わりから、考察を進めます。

前回は、1)経済的支援が現代美術(特にインスタレーション作品)に与える本当の影響とは、2)現代美術を支援するのは誰か?、3)現代美術(先進的な芸術表現)の可能性とは何か、の3つのトピックを通して、テクノロジーの進展によって前衛的なアートの支持基盤の没落と、グリーンバーグが提起しながら十分に探求できなかったそれを乗り越える道が示されました。

今回の読書会ではグリーンバーグの提起した可能性をより具体的に検討する後半部分を取り上げます。

読書会は翻訳をもとに行いますので、特に英語力は必要ありません。

前回の内容についても簡単に紹介しますので、前回不参加の方でも流れはつかむことができると思います。

〔冒頭部分の訳を公開します:PDF形式

〔前半部分の概要です。段落ごとにざっくり訳しています:PDF形式

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

テキストはこちらから入手できます。

<参考図書>
クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(『グリーンバーグ批評選集』所収)

<関心があれば>
ボリス・グロイス「全体芸術様式スターリン」
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」
Clement Greenberg, The Plight of Culture, in Art and Culture

===
日時:2012年7月14日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分

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06-17-12

村上隆インタビュー -『Murakami Ego』展(2012)カタール

“Behind the scenes interview with Takashi Murakami – EGO, Doha Qatar 2012.″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

同展キュレーターでヴェネツィア・ビエンナーレ2013の総合ディレクターでもあるマッシミリアーノ・ジオニのコメントも収録されています。

〔字幕〕
村上隆:初めてカタールを訪れたとき、自分にとってのフロンティアのように
感じました。
今回の展示では、すべてにおいて新しいことに取り組みました。
例えばLEDパネルを埋め込んだ台座などです。
それはとてもスペクタクルな効果を作り出しています。
それから私自身を象ったバルーン彫刻もあります。
それらはすべて、私の新しい挑戦として制作されました。

マッシミリアーノ・ジオニ:村上氏とともに展覧会を作り上げていく
仕事は、素晴らしい経験でした。
それは彼が現代の最も重要なアーティス
トの一人であるというだけでなく、彼が、
小さな帝国の中心として存在しているからです。
彼の仕事は数多くのアシスタントや友人との共同作業で進められます。
そのような制作の仕組みが彼の作品をさらに力強くするのです。
彼の展覧会の準備作業は、小さな都市を作り出すのと同質のものと言えます。
彼の想像力とアイディアはこの展覧会ですべて実現されています。

村上:日本との関わりが深いことは知っていました。
一見すると異なる文化に見えるけれども、ここもやはりアジアの一部です。
アジア的感性とは何か?それが私の問いであり、
この展覧会が答えなのです。

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06-07-12

〔ノート〕『全体芸術様式スターリン』ボリス・グロイス

目次

序にかえて
はじめに―スターリン文化をどう記述するか

第1章 ロシア・アヴァンギャルド―進歩を越える跳躍
白い人類
赤い煽動

第2章 スターリン流〈生の技術〉
世界文化の最後の審判
非在のタイポロジー
デミウルゴスの地上の化身

第3章 ポストユートピア芸術―神話から神話系へ
失われた地平線
ホムンクルスとしてのアヴァンギャルド画家
スターリンの高弟たち
詩人という警官
残酷な才能
クレムリンの年代記作者

第4章 下意識のデザイナーとその慣習

“現代世界のあらゆるユートピアは芸術を源としている。…こうした伝統的な理想を拒む今日のポストモダン芸術もまた新しい世界を、いかなる言語も様式も芸術において同等の代表権をもちうる多元的民主的世界を企図している。ただし芸術は、貨幣や他の商品と交換される商品になることだけはけっして望まない。いいかえれば芸術は、現在のあるがままの世界と、そこで芸術が実際に占めている位置とを承認したくないのだ。芸術と世界の間のこの断絶は…、世界を芸術の枠内にとどまらずじっさいに現実においてつくりかえようとする欲望を生み出すことになる。
今世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドは生そのものを変えてしまおうとするもっともラディカルな試みのひとつだった。生を変えるために…やはり世界を変えようとしていたマルクス主義と連帯した。…マルクス主義もまた、芸術的理想を生活の中で実現することをめざしていたドイツ・ロマン主義を源としていた。したがってどの労働者も、事物と自分の生活をまるごと創りだす自由な創造者すなわち芸術家とならなければならない。
…そのためには、生産ではなく消費を日々の課題としていた支配階級は根絶されねばならなかった。まさにそれによって芸術と創造は、消費者とその偏狭な嗜好から、市場から、貨幣の権力から解放される。またこうして芸術的な営みとして了解された労働は自由に発展していくための無限の可能性を手にする。
しかしじっさいには、誰にも買われず欲しがられず、消費者を持たない芸術はその価値を失った。…消費と交換の圏域から排除された芸術は価値を失い、誰にも必要のないがらくたの山と化した。”(pp.7-9)

新しさの創出としての芸術そのものの根本にあるのは交換という操作である。芸術における新しさとは、芸術家が芸術の伝統を非芸術と交換するときに…生まれる。交換をこうして操作するには、芸術における価値のヒエラルキーや美術館という制度、芸術市場、芸術と非芸術の区別が前提となる。社会的に保障された、文化的価値の自律域を一掃し、現実と芸術とを同一視する単一の芸術プロジェクトをもってそれに代えようとすれば、…芸術と非芸術の区別がなくなるのだから、少なくとも創造はもはや不可能となる。現実全体が芸術となり美術館となり、ここではもはや何も変えることができないのだ。”(p.9)

現実に「単一の芸術プロジェクト」によって生活全体を構成してしまったのがスターリンによるソヴィエト体制であった。しかし、ソヴィエトには外部が残されていたため、スターリン以後には新たな芸術的価値を生もうとする実践が生まれた。ソヴィエトの文化は西欧の芸術に対する非芸術であったから。

“芸術がある意味で生活を独裁することの是非をめぐってソ連で議論が戦わされているとき、西欧でもやはり(しかし別のかたちで)芸術が生を吸収するプロセスが生じつつあった。つまりある時点から、…まだ芸術になっていない何かが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ。…伝統的な意味での芸術に携わる芸術家は現代では真の芸術家として認知されない。真の芸術家とは非芸術に携わるものの謂であるとされているのだ。”(p.10)

“たしかにこの世界にはまだ、芸術の分野で使われて来なかった事物がたくさん見つかりはするが、やり口そのものが反復的になってしまったのである。
芸術の一つの時代が危機に瀕している。芸術においてなにがおもしろく、なにが独創的であるかを決める基準が失われ、…なにを創りだすかではなく、作者のキャラクターそのものに関心が移っていく。芸術における女性や民族の表象、性的マイノリティーたちの芸術的表象をめぐる攻防が始まり、社会的になんの特権もない芸術言語や芸術様式の純美学的な表象をめぐる闘争がつづけられている。”(p.11)

こうした「危機」の突破口についてグロイスは予測を避けているが、検討すべき芸術理論の前提について、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、デリダ、リオタール、ボードリヤールらに代表されるポスト構造主義の思想をあげている。ポスト構造主義の基本的な方向性について、グロイスは次のようにまとめている:記号(芸術作品も含む)の物質性(指示対象ではなく記号それ自体の自律的ありよう)を析出し、その意味内容は真理や内的な意図とは無関係に、物質的記号の戯れ、その結合によって生み出されることを示す。「言語はつねにそれ自体の物質的現実をもっており」、「どのような言語も、それ自体〔その物質的な実体〕とは異なる現実(外的=ポジティブな現実であろうと、内的=精神的な現実であろうと)を提示することはできない」(p.12)のである。

“こうして「世界についての真理」という伝統的な芸術理解は批判されている。有限の物質的な言説では無限の真理を提示することは出来ないとされているからである。だがそれと同時にポスト構造主義的な言説は、記号の無限の戯れ(デリダ)、無限の解釈と物語(リオタール、ボードリヤール)、無限の欲望(ラカン、ドゥルーズ)等をも重視する。ここでは物質的記号の無限の戯れは、従来どおり、ある一定の現実として了解されている。人間と言語は、無限の神、無限の理性、無限の精神、あるいは無限の合理的自明性へのよすがを喪失するが、そのかわり宇宙と歴史をつらぬく欲望の無限の奔流に内包される。”(pp.12-13)

しかしグロイスは「欲望の無限の奔流」は記号の媒体ではありえないと指摘する。「記号が物質的であるなら、記号は書物、絵画、映画、録音、ヴィデオといった物質的な担い手をもっている」はずだから。記号の無限の戯れは想像的なものであって、それは物質的に記録されなければリアリティを獲得できない。

“こうした場合、芸術家は、社会に承認されたもろもろの価値と特権化されていない現実との間の仲介者ではなくむしろ、既に記録された言語経験のアーカイブと言語的想像力の潜在的に無限である戯れとの間の仲介者なのだ。このとき、芸術家が社会的に特権化されていない実践行為の記号を比較的頻繁に用いるとしても、それはこうした実践と固有の想像力の戯れとの間に本質的なアナロジーを見ているからにすぎない。”(pp.13-14)

記号の無限の戯れは、物質的な記録=アーカイブなしにはリアリティを持ちえないのであって、その点で芸術作品(物理的な保存の対象となる)と非芸術=生活(物理的に保存されない)との間の差異が完全に消えることはない。

“芸術がどのようにして現在の危機から脱することになるのかはわからないにしても、なんらかの突破口があることだけは確信していい。…生活を芸術に従属させる全体主義的な企てによっても、現実をありのままに美的かつ芸術的に表象することをもくろむ民主主義的な企てによっても、芸術と生活のあいだの境界を完全に取り払うことはできないからである。芸術と生活のあいだの境界を取り払うことに見合うのは、ただ死の克服のみなのだ。…ユートピアはすべてこの究極の境界を克服することをめざし、いかなるユートピアもこれを実現できなかったのだ。”(pp.14-15)

“モダニズムは商業的な娯楽芸術を克服しきれず、逆に戦後、マーケットの消費者に左右される娯楽芸術という単一の潮流へなしくずし的に統合されていくが、西欧のポストモダニズムは、そのようにして敗北し去ったモダニズムに対する反動として現れたのだった。…多くの芸術家たちはもろもろの価値を懐疑的に見つめなおし、「選ばれてある」という自負や、自分たちこそ新しい聖職階級であるといったモダニズム美学の全体主義的な自負を拒むようにもなった。いまやこうした自負は、自分たちが個人的創造を拒み、引用と商業文化のできあいの形式とのアイロニカルな戯れとに移行しているのだという新たな衒いにとって代わられた。とはいえ、芸術的理想の純粋さを保つことだけがこの移行の目的なのである。”(p.30)

ソヴィエトのソッツアートは、みずからの純粋さと潔白さといういかなる幻想をも排除する、モダニズムの全面勝利という状況の中から生まれた。ソッツアートはそれゆえ、「別様のもの」の「トリヴィアルなもの」を生む目新しさやオリジナリティを拒みつつも、芸術家が権力志向と不可分や芸術的意図の担い手でありつづける、ということを意識している。西欧の芸術家にとっての市場がそうであるように、ソヴィエトの芸術家は権力を自分とは関わりのない外部として対置させることはできない。…ソッツアートの画家や作家たちは、自分たちの芸術実践の根底にある芸術的意図と権力への意志とが同一のものであるという認識をけっして手放さない。彼らは逆にこの同一性をこそ自分たちの芸術的な省察=反映の主たる対象とし、人を倫理的に安心させる対立の図式だけが好んで示される環境にあって、あえてこの隠れた同一性を誇示してみせるのである。
「国家規模の芸術作品としてのソヴィエト体制」という現代の芸術的省察は、その内部において、他のアプローチでは到達しえないきわめて多くのことがらを明るみに出してくれる…”(pp.30-31)

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06-03-12

ジュディス・バトラー「あなたの振る舞いがジェンダーを作る」

“Judith Butler: Your Behavior Creates Your Gender″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
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〔字幕〕
質問:「ジェンダーは遂行的である」とはどういう意味でしょうか?

ジュディス・バトラー:一つ言っておきたいのは、ジェンダーは遂行
される、ということです。
それは「ジェンダーは遂行である」というのとは、少し違います。
私たちが「ジェンダーは遂行される」と言う時、
それは普通、私たちはある役割を受け入れて
いるということを、
何らかの仕方で、役割を演じているのだ、
ということを意味します。
私達の演技は、私たちのジェンダーと、
私たちが世界に対して示すジェンダーに
対して決定的な影響を与えます。

ジェンダーは遂行的である、ということは
それとは少し違った意味を持ちます。
何かが遂行的であるとは、それが事実の生産を
繰り返すことを意味するからです。
私たちが演じ、歩き、話し、語るその仕方が
男性であるか女性であるかの印象を
確立するのです。

ブルックリンに越してきたばかりの頃、通りを
歩いていたら、
窓枠に腰掛けた女子高生が、私に声を
掛けて来ました。
「あなた、レズビアンなの?」と…
彼女は私に嫌がらせをしたかったんでしょう。
彼女は怖がっていたのかもしれませんし、
私が何者なのか不思議に思っていたのかも
しれません。
いずれにせよ、私は振り返って「そうよ」と
答えました。
それを聞いた彼女は、とても驚いていました。

私たちはまるで、男であることや、女で
あることが、内面的な現実であって、それは疑う余地の
ない事実であるかのように振る舞います。
実際のところ、それは繰り返し生産され、
再生産される実体のない現象なのです。
ですから、ジェンダーは遂行的である、とは、
あらかじめジェンダーを持つ人などいない、
ということなのです。
理解し難いでしょうが、これが私の主張
なのです。

質問:遂行的なジェンダーという考えは、ジェンダーに
対する私たちの見方をどう変えるのでしょうか?

バトラー:考えてみてください、
女性っぽいしぐさの男や、男のように振舞う女が、
いじめられたり、からかわれたり、暴力に
さらされることなしに、
あるいは両親に、精神科へ行くことを
すすめられたり、
「どうして普通と同じようになれないの」
と非難されることなく社会生活を送ることが
どれだけ困難なのか。
そこには、精神障害に対するノーマライゼー
ションのような制度的な力や、
若年期のいじめのような日常的に遂行される行為が、
私たちを固定されたジェンダーに拘束
しようとするのです。

私が考察しようとしている問いは、
ジェンダー規範がどのように確立され、
規制として機能するのか、
それを撹乱し、規制を乗り越える最良の
策とは何か、ということです。
私の考えでは、ジェンダーは文化的に作り上げられる
ものであると同時に、
行為、あるいは自由の領域でもあるのです。

最も重要なことは、暴力に抵抗することです。
観念的なジェンダー規範によって、
規範とは異なるジェンダーの人々や、
ジェンダー表象に従わない人々に対して
加えられる暴力に。

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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