07-31-12

ジェニー・ホルツァー「都市へ」

“Interview with Jenny Holzer″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

芸術係数読書会で取り上げている、クレイグ・オーウェンス「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」でも紹介されているジェニー・ホルツァーのウォールプロジェクション作品についてのインタビューです。

〔字幕〕
ジェニー・ホルツァー:アートは時に、意図や意味に適切な
感情を与えてくれる。
長年パブリックアートに関わるアーティストたちは、
できるだけ多くの人々に作品を届ける方法を見つけ出すのに長けている。

図書館員:図書館の最も重要な仕事は、知識を広めることです。
今回のプロジェクトが素晴らしいのは、二〇世紀の最も優れた詩が作品に用い
られ投影されていることです。
その詩は、多くのモチーフを包み込むものであり、人間の心に最も強く訴えかける
テーマを取り上げているのです。
例えば、生命、死、戦争などです。
そして人々は自由にその意味するところを受けとめるのです。

ホルツァー:最初にこのテキストを投影したのは、ジョージ・ワシントン大学のゲルマン図書館の壁面でした。
そこには国家安全保障関連のアーカイブがあります。
ここで投影しているテキストは、そのアーカイブに含まれているものです。
そこには、テキストそれ自体がより直接的に感じられるような資料があります。
それらの書類は、誰の保護も受けられない人々が書いたもので、その文字は、時に殴り書きのように
書かれており、手書きの文字は、歴史を現実のものとして感じさせてくれるのです。

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07-29-12

芸術係数読書会:ニコラ・ブリオー「関係性の美学」を読む

Nicolas Bourriaudの「Relational Aesthetics」の読書会のお知らせです。

今回はテクストそのものを読み進めるのではなく、「Relational Aesthetics」の中で取り上げられている数多くのアーティストや作品/プロジェクトの画像や動画を紹介し、解説します。

1998年に刊行された「関係性の美学」は、フランス人キュレーターで批評家でもあるニコラ・ブリオーが、当時美術批評やアカデミックな研究において無視されていた同時代(主に1990年代のヨーロッパ)のアーティストや作品を言説化し、プロモートするために編まれた論文集です。

収められた各論考は、複数の批評誌にばらばらな時期に掲載されたもので、理論的枠組みとしての「関係性の美学」は一貫性を欠いた、曖昧なものにとどまっています。にもかかわらず、90年代以降のアートシーン含めた社会状況を受け、同書の提起した「リレーショナル・アート」や「関係性の美学」は90年代を代表するアートのキーワードとして広範な影響力を持ちました。

ブリオーの一義的な目的は90年代美術の言説化にありましたが、「関係性の美学」というコンセプトはその後2000年代以降にも影響力を維持しています。リクリット・ティラバーニャやピエール・ユイグ、ドミニク・ゴンザレス・フォレステルらが世界的に評価を高める一方、ブリオーが同書で取り上げていない「リレーショナル・アート」の後継世代とも言える、ティノ・セーガルやマーティン・クリードが注目を集めていることからもそれは明らかでしょう。

「関係性の美学」はブリオーがキュレーションした数多くの展覧会の実践を通じて書かれたものなので、全編を通じて数多くの作品が紹介されています。が、本書には図版が添えられておらず、ブリオーによる作品記述もあいまいで正確さを欠いているため、「リレーショナル・アート」や「関係性の美学」の具体的イメージをつかみずらくなっています。

読書会では、それらの作品をスライドなどで紹介しながら解説します。「参加型」作品や「コミュニティ・アート」の範疇には収まりきらない「関係性の美学」の可能性を知るいい機会ではないでしょうか。

今回は、スライドショーで画像/映像を見ながらの会になりますので、気軽に参加していただければと思っています。

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

===
日時:2012年8月18日(土)18:30-21:30
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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07-19-12

芸術係数読書会:レオ・スタインバーグ「他の批評基準(フラットベッドとしての画面)」を読む

Leo Steinbergの「Other Criteria (The Flatbed Picture Plane)」の読書会のお知らせです。

「他の批評基準」は1968年にMoMAで行われたスタインバーグのレクチャーを元にした論考です。今回読書会で対象にするのはその論考の結末部分、「フラットベッドとしての画面(The Flatbed Picture Plane)」(*Flatbed picture planeは「平台型絵画平面」と訳されるのが通例ですが、ここでは意図的に「フラットベッドとしての画面」と訳出しています)と題された節です。

「他の批評基準」の標的となっているのはフォーマリズムが押し進めようとする「ただひとつの正しい評価基準」という考え方です。スタインバーグは、芸術作品は「平面性」のようなただ一つの価値に向かって直線的に進化するものではなく、その評価は鑑賞者の身体との関係やテクノロジーを含めた横断的な観点から下されなければならないと主張します。「フラットベッドとしての画面」とはそうした彼の主張を端的に言い表したコンセプトであり、それが具現化した実践に与えられた名前でもあります。

スタインバーグによれば「フラットベッドとしての画面」はデュシャンの実践を重要な契機として、1950年代に、とりわけラウンシェンバーグの作品によって現れました。それがもたらした最大の転換は「芸術の主題がnatureからcultureへ移行」したことです。この指摘によって、「他の批評基準」は後のポストモダン・アート・セオリーの枠組みに大きな影響を与えています。

読書会では、この論考をボリス・グロイス(「アートと金」)、東浩紀(「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」)らの論考や、村上隆(スーパーフラット展)、カオス・ラウンジの実践と合わせて読み解き、その可能性について考察したいと思っています。

読書会ではこちらで翻訳を用意いたしますので、特に英語力は必要ではありません。(「他の批評基準」は「美術手帖」の1997年1月号から3月号にわたって抄訳が掲載されていますので、入手可能な方は参考にしてください。)

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

<読んできてもらえると嬉しい本>
東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』所収)
村上隆『スーパーフラット』

<関心があれば>
クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」(『グリーンバーグ批評選集』所収)
ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」(ハル・フォスター編『反美学』所収)

===
日時:2012年8月11日(土)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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07-10-12

リチャード・ドーキンス「道徳の問題を科学的に考える」

“Richard Dawkins: Letting Science Inform Morality″に日本語字幕を付けました。
翻訳は辻憲行 (twitterID=nori_1999)
芸術係数(http://gjks.org)
元の動画はこちら

ルーシー:1974年にエチオピアで発見されたアファール猿人の化石人骨の愛称。発見の際に、調査隊のメンバーが
ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」を流していたことからそう呼ばれている。

アルディ:1992年に東京大学の諏訪元教授によって発見されたラミドゥス猿人の化石の愛称。ルーシーより100万年以上も
前に直立歩行をしていた可能性が指摘されている。

最古の「人類の祖先」はルーシーではなくアルディ(ラミダス猿人)-WIRED

〔字幕〕
–科学は道徳の問題を解明できるのでしょうか?

リチャード・ドーキンス:科学の仕事は道徳上の問題を解明する
ことではありません。
しかしながら科学は、道徳哲学におけるあらゆる主題の、
道徳的問題を論理的に検討する際に、
特定の考えの矛盾点を明らかにするのに役立ちます。
中絶や安楽死などに関する道徳上の問題を検討しているとき、
誰かが、極めて醜悪な意見を述べていることを、
それが、自己矛盾をきたしているためであるとして指摘できるのです。
そういう意見を言う人々は…あることを強く主張しつつ、
他の主張と同等のリスクを自らの主張も持っていることを無視する
という矛盾を抱えているのです。
その矛盾を指摘するのが、科学的思考なのです。
それは科学そのものではなく、哲学における科学的思考です。

さらに、科学的事実もまた、例えば中絶の道徳的問題を解明するのに
役立つのです。
科学者は、胎児の発達過程で、いつ神経組織が発生するのかについて、
有益な情報を提供できるでしょう。
神経組織の発生以前には、胎児は痛みや苦しみを感じる能力を
持たないでしょうから、神経組織の発生は、極めて重要な意味を
持っていると言えるでしょう。
あるいは、胎児の神経組織が発生し、痛みや苦しみを感じる能力を獲得
したとしても、それは成牛の神経組織よりも未熟であると言えます。
その場合、人間の胎児の感じる苦しみと、
食肉として屠殺される成牛の苦しみのバランスはどうなのか。
道徳至上主義者なら、人間は特別な存在であり、
牛は人間ではなく、同じ道徳的考察の対象にならない、と言うでしょう。
それに対して科学者はこう応えるでしょう。
特別とはどういうことでしょうか?我々人類は結果として進化したに過ぎず、
すべての種はいとこのようなものです。
あなたは進化の過程のどこかで線引きをして、ここからは人間で、これ以前は違う、
などと主張するのですか?
人類はチンパンジーと共通の祖先からの進化の過程で、およそ六百から七百万年前、
ルーシーやアルディのような種を経由し現生人類に至ったわけですが、
ルーシーは人間の道徳観念を持つのか、それともチンパンジーのそれを持つのか。
この問いが示唆するのは、このような仕方で、種の間に明確な境界
線を引くべきでないということです。おそらくその線は、
もっと曖昧なものであるべきなのでしょう。
極端な道徳至上主義者は、早急に確固とした境界線を、人と他の種
の間に引こうとします。
人間の排泄物さえも人間的であると言い、大人のチンパンジーの排泄物は
人間的ではないと言うのです。
そのような主張は考察に値しない、と言うことは、
科学的に一貫性のある主張なのです。
少なくともこのような仕方で科学は、
道徳上の議論に寄与するのです。

–科学的理性が、社会に害悪をなすことはあるのでしょうか?

ドーキンス:私たちは醜悪な行いを功利主義的に
正当化することができます。
人は拷問について、功利主義の立場から
それを肯定することができるのです。
道徳哲学者は次のような仮想問題を提起することがあります。

世界規模の爆弾が起爆しようとする時、ただ一人の人間が
それを止めるパスワードを知っているとする。
その人物は自爆犯であり、パスワードを教えようとしない。
我々にその人物を拷問する権利はあるだろうか?

多くの人が、権利はあると答えるでしょう。
拷問は極めて残酷な行為であるけれども
このような特殊な状況下でなら、世界を救うため、
人はその人物を拷問するだろう。
こうして功利主義的に拷問のような醜悪な行いを正当化できるのです。

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07-06-12

芸術係数の読書会はこんな感じでやっています。

 
芸術係数の読書会の様子です。基本的にポストモダン・アート理論を中心に、未邦訳の英文テキストを読み進める読書会です。今月はボリス・グロイス「Art and Money(アートと金)」と、クレイグ・オーウェンス「From Work to Frame, or Is There Life After “The Death of the Author”?(作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」)」の二本です。

英文テキストが課題図書ですが、こちらで翻訳を用意して配布するので、参加者には英語力は必要ありません。写真のように読書会は講義形式で進行します。オーウェンスのテキストではかなり多くのアーティストついて言及されているので、スライドで作品を紹介して解説を加えながら進めます。

参加者の中の一般/学生の割合は6:4で、一般の方が多くなっています。参加者の顔ぶれは、アーティスト、翻訳家、一般のアート愛好者、美大生、一般大生など。『関係性の美学』に関心のある方が多いですね。

現在の課題図書について簡単に説明します。
「アートと金」は、グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」と「文化の窮状」で提起され未解決のまま残された問題ー運命づけられた批評的文化の社会的基盤(ブルジョア=教養を身につけるための十分な余暇を持つ人々)の喪失ーに対する一つの処方箋を、二つの論考の読み換えを通じて提供します。
「作品から枠組みへ」は、「作者の死」という事態を1970年代を端緒とするポストモダン・アートの基本的条件の一つとして取り上げ、作品の意味の源泉としての「作者」が失われた後、その空白にどのようなアプローチがなされたか、その展開の歴史をロバート・スミッソン、マルセル・ブロータース、ダニエル・ビュレン、シンディ・シャーマン、シェリー・レヴィン、ハンス・ハーケ、バーバラ・クルーガー、ジェニー・ホルツァーらの実践を通して描き出しています。

興味のあるかたはお気軽にご参加ください。

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07-01-12

芸術係数読書会:クレイグ・オーウェンス「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」を読む 第2回

Craig Owensの「From Work to Frame, or Is There Life After “The Death of the Author”?」の読書会のお知らせです。

「作品からフレームへ、あるいは、「作者の死」後、生き残るものはあるか?」は、1960年代後半から70年代にかけて制作され、発表された芸術作品(主にマルセル・ブロータース、ダニエル・ビュレンヌ、マイケル・アッシャー、ハンス・ハーケ、ルイーズ・ローラーなど)や論考(マーサ・ロスラー、マリー・ケリー、アラン・セクラなど)に見られるある重要な変化に基づいて、80年代以降に現れたアプロプリエーショニズムとして知られる一群の作家たちの仕事についての考察です。

この論考でオーウェンスは、1970年代以降のアート(つまりポストモダン・アート)の基本的条件の一つが「作者の死」であると考えています。しかし同時に、バルトによる「作者の死」を埋める二つの候補者(「読者」と「言語」)の早急な提案は不十分であるとしています。オーウェンスは「作者の死」によって生まれた空席へのアプローチについて、「作者とは何か?」でのフーコーの主張に同意します。(「私たちは、作者が消えた後に残された空白を検証しなければならない。私たちはその裂け目と断層、そして新しい境界線を注意深く検証することによって、その場所を再び埋めなければならない。私たちは、この消滅から生まれた機能の動勢を窺わねばならないのです。」)その上で、バルトとは別の角度からのアプローチの検討に入ります。

前回は論考中に名前を挙げられたアーティストたちの作品とそのコンセプトを具体的に紹介しながら、オーウェンスによる1970年代から1980年代までのアートシーンの見取り図が描かれました。

次回は、上述の「別のアプローチ」について、さらに何人かのアーティストの実践を参照しながら考察を進めます。

〔冒頭部分の訳を公開します:PDF形式

お申し込みはこちらから。

なお、芸術系数の読書会ではFacebookに読書会ごとのグループを作ってそちらでテキストや参考資料などの共有を行なっていますので、Fecebookアカウントをまだお持ちでない方は取得していただいた上でグループへの登録をお勧めします。

<参考図書>
ロラン・バルト「作者の死」(『物語の構造分析』所収)

<関心があれば>
クレイグ・オーウェンス「他者の言説」(『反美学』所収)
ミシェル・フーコー「作者とは何か?」(フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯 (ちくま学芸文庫)所収 )

===
日時:2012年7月29日(日)13:30-17:00
場所:千早地域文化創造館
参加費:学生 500円/一般 1,000円
定員:
郵便番号: 171-0044
住  所: 東京都豊島区千早2-35-12
電話番号: 03-3974-1335
アクセス:
地下鉄有楽町線・副都心線 千川駅下車 3番出口 徒歩約7分
国際興業バス「要町3丁目」バス停下車 徒歩約7分


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